彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

NHK

カムカムエヴリバディ 「善女のパン」と「古パン」と「Witches' Loaves」

上白石萌音さん演じる安子と松村北斗さん演じる稔さんの切ない物語りで盛り上がったNHK連続テレビ小説の「カムカムエヴリバディ」であるが、今日、NHK・BSプレミアムで毎週土曜日の午前中に1週間分を一挙に再放送するカムカムエヴリバディを観た。


その42話(12月28日放映分)だが、弁護士の卵である片桐(風間俊介)と深津絵里さん演じる主人公のるいが、クリーニング店のカウンター越しに交わす会話のなかで、オー・ヘンリーの「善女(ぜんにょ)のパン」という噺が出てきた。


わたしのなかでオー・ヘンリーといえば、「最後の一葉」という短編である。

確か中学校の国語の教科書かなんかで初めて読んだのだと思うが、結末の数行に至って稲妻に打たれたような強烈な感情に襲われたことを思い出した。

そう!そう云えば、その後、オー・ヘンリーの短編集を買い求めたこと、薄っぺらな文庫本だったのでひと晩で読破して、最後に必ずどんでん返しが用意された巧妙なストーリーに魅了された遠い記憶がよみがえってきた。

しかし、「善女のパン」という噺の筋には覚えがなかったので、久しぶりに文庫本を収めている書棚をあさり、確認しようと試みた。

きれいに並んだ本の中から最初に探し当てたのが、岩波文庫の「オー・ヘンリー傑作選」(大津栄一郎訳・1979年第1刷発行)であった。

早速、目次に目を通したものの、「善女のパン」という名が見当たらなかった。やはり収載されていなかったのだ・・・と思った矢先、「古パン」なる題目が目に留まった。

古パン
岩波文庫 オー・ヘンリー傑作選 古パン
ページをめくり読み返すと、まさに深津絵里さんがモノローグした40歳で独身のミス・マーサの噺であった。テレビ小説だから脚本家の藤本有紀さんがわざわざタイトルを変えたのかもしれないと思った。

でも、この岩波文庫は息子の中学入学祝いに贈られた「1991年 NEW101」と帯封にあった文庫本101冊セットのなかの1冊であり、わたしが「最後の一葉」に感銘を受けて小遣いで買った文庫本ではなかった。

そこで今度は廊下の隅に追いやられている古びた本がならぶ本棚の方を上から下まで眼を皿のようにして探してみた。すると、「O・ヘンリー短編集()(大久保康雄訳・昭和44年第1刷発行)という新潮社発行の文庫本を見つけ出した。

善女のパン
新潮社 O・ヘンリー短編集 善女のパン
目次には、ぴったり「善女のパン」とあった。この噺、読んでいたのだ。

ただ、主人公のるいが一番のお気に入りといったのとは違い、高校二年生頃のわたしには多分、人生にたびたび訪れるアイロニーと言おうか人生の間合いのようなものが理解できず、印象のきわめて薄い作品だったのだと思う。

その結末で「例の彼女の画家」ならぬ「建築の製図家」がミス・マーサに放った「おまえみたいなやつを、おせっかいのバカ女というんだ」という辛辣な言葉に、「最後の一葉」から醸し出される人生の薫香のようなものは感じ取れずに、ただよくある浅はかな女の噺で、無理繰り脳天逆落としのような顛末に持ち込んだのだと、切って捨てたのに違いない。何しろまるで記憶に残っていないのだから。

ただ、いま古希をむかえてわが身を振り返ってみると、こうした独りよがりや夢想癖で痛い目にあった経験がひとつやふたつではなかったような・・・と思えてくる。

そして「善女のパン」なるタイトルが、原題の「Witches' Loaves」(魔女のパン)や「古パン」よりも言い得て妙だと思えてくるのだから、人生とはやはり生き続けてみなければわからぬことが当たり前だが多いものだと、しみじみ思った2022年の正月ではある。

NHK受信料支払義務化報道のピントはずれ3

 

 

 大手新聞各紙は、11日、「総務省がNHKに対し受信料を2割程度下げるよう要請したうえで、政府は125日召集予定の第166回通常国会に08年度から受信料支払いを義務化する放送法改正案を提出する見込みである」と報じた。大手メディアがこの改正案の意味合いを「義務化」にウェイトを置き報道をしていることに、わたしは報道という民主主義のインフラへのこの国の基本的な向き合い方に対する疑念と一抹の不安を覚えた。

なぜなら、今次改正案の法案提出の経緯を見ると、公共放送のあり方という民主主義の根幹にかかわるインフラの維持と充実という本質的議論がなされぬまま作成、提出されたものであり、国民的要請として放送法の改正整備がなされたわけではないからである。受信料不払いによる経営基盤の崩壊におびえたNHK経営陣が政府にすがって今回の改正案が作成されたその法案の出自のあり方に大きな懸念を有するのである。それは公共放送の使命であり、存在意義である「権力との適切な距離間」という公正さを保てなくなる、将来、NHKが権力に手繰り寄せられていく弱みをこの一件で作ってしまうのではないかという点にある。

 

 そもそもこの改正案を論じるのに「受信料支払の義務化」という報じ方に、現在のメディアがもつ報道機関の存在意義の考え方が表れているようでならない。それは、義務化については昭和25年に制定されその後、幾多の改正を経てきた現在の放送法において、第2章「日本放送協会」の第32「受信契約及び受信料」で支払の義務化は明確に謳われているはずだからである。その条文には次のようにある。

 

協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(中略)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。2項 協会は、あらかじめ総務大臣の認可を受けた基準によるのでなければ、前項本文の規定により契約を締結した者から徴収する受信料を免除してはならない」と規定されている。

 

つまりNHKを受信できる設備(テレビ)を設置した者に対し、日本放送協会(NHK)は「受信料を免除してはならない」ことを定めている。換言すれば、テレビを設置した者はNHKを観ようが観まいがNHKと受診契約を締結し受信料を支払わねばならぬと言っているのである。これはまさに支払の義務化以外の何ものでもない。

あえて今回、大手メディアが義務化と表現するのは、昭和55年10月21日に開催された参議院逓信委員会における中村鋭一委員の「受信料義務化」に関する質問に対し、時の郵政省電波監理局長が「NHKの受信を目的としないもの及びラジオについては免除する」と答弁した事実を念頭に置いたものと推測されるが、昭和25年当時に但し書きされた「放送の受信を目的としない受信設備」という文言が「NHKを観ない」と強弁する人々の支払い拒否の根拠となっていることは確かである。その意味では今回の法改正でNHKの受信料の義務化を明確にすることの意味はないわけではない。

 

しかしそのこと自体だけを取り上げるのであれば、今次改正案は放送法が昭和25年に制定されたそもそもの精神からすれば、受信料徴収についての紛らわしい表現を明快にするだけに過ぎないということになる。

 

 それでは、今日、ただそれだけのために放送法の改正法案が提出されようとしているのだろうか。現在の放送法には条文を見れば分かるように不払いの場合のペナルティー規定がない。「支払義務はある」が、不払いの場合の「罰則がない」のである。改正案の中身が明示されていない現在、憶測の域をでぬが、当然「強制力をもった義務化」ということでなければわざわざ改正する必要はない。受信料の徴収に際し、受信料不払い者に対する割増金加算といった罰則規定等を備えた強制力が持たされることになろう。

 

因みにNHKを語るときよく引き合いに出される英国放送協会(BBC)の受信料制度は「まずテレビやビデオデッキなどを購入する際には許可証を購入しなければならぬ。そして、視聴者は郵便局で毎年、1年間有効の受信許可証を買わねばならぬ。許可証の未購入者には最高1000ポンドの罰金を課す」という罰則規定のある「TVライセンス制度」となっている。

 

周知のとおりNHKは昨年4月に発覚したチーフプロデューサーのカラ出張による1760万円余の着服事件などとどまるところを知らぬ不祥事の連鎖で国民の怒りを買い、受信料の不払い件数が急増した。NHKはカラ出張事件を契機に、昨年末に過去7年間の全部局の経理書類チェックした。その結果、不適切な経理処理が1063件、過払い経費が1137万円にのぼり、その関係者の処分を行なった旨公表した。NHKの内部監査体制がずさんで甘きに過ぎたことが、この驚くべき数字からでも一目瞭然にして分かる。そのことにわたしを含め国民が大きな憤りを覚え、許せぬと感じたのは当然のことである。

現実に不払い件数はピーク時より減少したとはいえ、200611月末でも約104万件(速報値)と100万件台にあり10万件にも満たなかった20049月時点の不払い件数からは大きく増加し、高止まりしたままである。

 

そうした事態のなかで今回の法改正の狙いが、NHKすなわち公共放送の経営の屋台骨を揺るがす受信料不払いの影響が看過できぬ局面にきており、その早急な修復と安定化を図らんとするものであることは衆目の一致するところであろう。

 

もちろん法律改正による受信料徴収強制化の前に、NHK自身がこれまでの膿みを出し尽くし内部体制の改善・整備・強化を急がねばならぬことは言うまでもない。コーポレートガバナンス(企業統治)の強化やコンプライアンス(法令順守)の徹底などやるべきことは早急にやらねばならぬことは当然であり、役職員一体となった意識改革が必須であることは言を待たない。その内部改善がなされることを当然の大前提としたうえで、あらためてわれわれは公共放送を持つ意味は何かを考えて見なければならない。

 

言うまでもなくNHKは国営放送ではない。また半官半民の放送事業者でもない。国の出資や特定の出資は一切受けておらず、財源を受信者が直接負担する受信料に負っている。国家から財源は独立性を保っているのである。毎年の収支予算、事業計画および資金計画も、国民の代表で構成される国会の承認を受けることになっており、煎じ詰めれば国民が公共放送を経営する仕組みとなっている。要すれば国民が支える公共放送は健全な民主主義を担保する重要なインフラのひとつなのである。

 

受信料と放送法改正の問題を語るうえで、われわれはこの意味を殊のほか重く受け止めねばならない。NHKは「われわれ国民の国民による国民のため」の放送事業者すなわち国民が運営管理する報道機関であることをわれわれはもっと強烈に意識し、その運営責任について自覚せねばならぬことを肝に銘ずべきである。

 

 こう考えたとき、今回の政府の力を借り依存する形で受信料徴収の強制化法案が提出されたことと、それを良しとするNHKの経営委員会並びに橋本会長以下執行機関の面々は、公共放送は「時々の政府、権力からの距離感を一定に保つべきである」という原点に照らし、あまりにも軽薄かつ緊張感に欠けた対応であると言わざるを得ない。すなわちNHK経営陣にとどまらず職員を含めた組織全体が自らに課された使命と誰のためにNHKがあるのかという原点について当然の認識を欠き、政府に受信料徴収の安定化を依存し一安心している不甲斐ない様を見ることは哀しく、不安である。その一方で、大手メディアや国民の今回の放送法改正に至るまでの一連の対応とピントのずれ方は、民主主義を担保する重要なインフラである公共放送を国民自らが捨て去ろうとしているように思えてならないのである。

 

 イギリスのBBCは第二次世界大戦の間、英国軍を決して「わが軍」とは呼ばぬ客観的・公正な報道に努めたと言われる。時の権力からある一定の距離を保った健全な報道機関を国家の主権を持つ国民が自らの手で有する意味と意義は、民主主義を健全に運営するうえで、とてつもなく大きいことをわれわれはもっと学ばなければならない。

 

 その意味において今回の受信料不払いに端を発した放送法改正案の提出に至った経緯はNHK、公共放送の独立性を保っていくうえで、大きな分岐点に立たされているのだと言わざるを得ない。そもそもNHK自体の不祥事の多発にこの事態を招いた原因があることは言うまでもないが、それ以上にこの法案提出に至る背景により公共放送がキム・ジョンイルの国営放送に近づいていく、変質していくことの方が、わたしにはとてつもなくこわいことに思えるのである。われわれは一時の感情、受信料不払いという鬱憤晴らしで、自らの目と耳と口を塞ぎ、失ってはならない。目下、このPJニュースやオーマイニュースジャパンなど草の根メディアが産声を上げ、徐々にではあるがそのフィールドを広げている。しかし、NHKという最も大きな報道機関を今現在、国民自らが手放す理屈はないはずである。客観的で公正な報道機関はいくつあってもよい。そしてパブリックの声が自らの手で自由に発信でき、それが大きな影響力を獲得する環境が少なくとも整うまでは、公共放送を国民自らの手で自発的に受信料を支払い、支え続けねばならぬと放送法改正案の次期国会提出との報道を受けてその思いを強くしたところである。



Wカップ報道に見たNHK改革の実態5

「Wカップ報道に見たNHK改革の実態」

 

 NHKは職員の経費流用など度重なる不祥事を発端に、受信料不払い件数が増加、NHKに対する経営体質改善が強く国民から求められてきた。

 

 そうしたなか、平成18年度の予算は、両院総務委員会の審議を経て3月末に国会を通過した。それを受けてNHKのHPに「NHK平成18年度収支予算と事業計画〔要約〕」が掲載されている。H18年度はNHKが再生へ向けて124日に発表した「NHK3か年経営計画――NHKの新生とデジタル時代の公共性の追求」の初年度にあたる。

 

 この再生への決意を国民に示した後も、今年4月に発覚したカラ出張事件など不祥事は一向に止む気配はない。識者を集めた経営委員会で議論され、纏め上げられた「3か年経営計画」。敢えて「新生」とまで、その副題に記した計画は一体何だったのかと、虚しくなり、沸々と怒りが込み上げてきたものだ。

 

 NHKの全職員は本当に「変革」をしよう、「自らの変身」を遂げようと決意しているのだろうか。日々のNHKの番組を見ていて、決してその兆候を認めることは出来ない。むしろ、能天気さに腹が立つだけである。

 

 メディア全体で、意図的に盛り上げたサッカーWカップも漸く閉幕した。その決勝戦(710日未明)の日の午後7時のニュースを見た。北朝鮮によるミサイル発射以降の国際情勢の緊迫、国連での制裁決議採択への外交努力といった国民の知りたい、そして知らせねばならぬ重要ニュースが目白押しの際に、なんとWカップの決勝戦の試合映像、仏・伊国民の悲喜こもごもの反応、ジダン選手のレッドカードによる一発退場のニュースに、多分、10分を超える時間が割かれていた。わたしは、正直、NHKの非常識さと、NHKは何をなすべきかが分かっていない、彼らは変革・変身をしようと必死に脳漿は(のうしょう)は絞っていないということを確信した。

 

 日本でのWカップ放映権120億円ともいわれ、その内、70億円を払ったといわれるNHKが、そのコスト回収にただならぬ意欲を見せるのは、馬鹿らしいけど仕方がないのだろうか。

 

 いや、そうではないはずである。

 

「H18年度の事業計画の要約」の「事業運営の重点事項」に「1.NHKだからできる放送に全力」という項目がある。その中に「視聴者のみなさまの関心の高い国際スポーツイベント放送の実施」という項目が入り込んでいる。

 

 わたしもスポーツ観戦は好きである。しかし、それはあくまで趣味としてである。事前にその金額を知っていたとしたら、国民は本当にそこまでの金を払って、たかだかボール蹴りのゲームに70億円もの放映権料を払うことを許しただろうか。巨額の資金を払ったことで、このイベントを盛り上げねばならぬと現場や編集責任者が、番組のなかでWカップ関連に重点を起きたい気持ちも分かる。不祥事以前に放映権契約は締結されていたのだろうから、これを今、責めるのは可愛そうではある。

 

しかし、それらは全て「時と場合」というものが大前提であり、世の常識である。北朝鮮の問題だけでなく、ニュースのプライオリティ(優先順位)、番組編成のあり方(何を国民に知らせねばならぬか)に、「NHK新生」の息吹や変化の兆候を認めることはできない。いや、体質を抜本的に変えようとするひたむきさが、全く伝わってこない。反対に、視聴者に媚びよう媚びようとする姿勢だけが、異様に伝わってくるだけである。

 

NHKは視聴率を気にする必要のない、他局と競争する必要のない唯一の放送局である。国民に知らせねばならぬ事実を忠実に知らせることこそ「使命」であるはずである。710日(月)の午後7時のニュース編成は、そうした「NHKの使命」とは遠い所にある報道姿勢ではなかったか。わたしには、その日のニュースを見ながら、経営者・職員一同が一丸となってNHKは「新生」するのだと必死にもがいているようには、これっぽちも見えてこなかった。

 

 北朝鮮のことは、何も必要以上に国民に危機意識を持たせる必要はない。冷静な報道姿勢が報道機関にも強く求められる。しかし、冷静な判断を国民ができるように日々のニュースでちゃんとした動きを的確に機動的に流してもらいたいのである。ジダンがMVPになるのもよい、退場するのも良い。だが、その放映時間よりは、北朝鮮、国連の動きについてより多い時間を割き、国民の冷静な判断に資する報道を今だからこそNHKはすべきであろう。

 

 Wカップの余韻は民放に任せれば事足りるのである。

 



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