6カ国協議再開に覚えた屈辱感と揺れる気持ち
6カ国協議の再開日が16日から18日に延期になることが最終的に決まったと伝えるアナウンサーの口元を眺めながら、「何か変だな」と感じたが、理由は簡単だった。6カ国メンバーの一国であるはずの日本がその事前の調整協議にまったく関与していないことなど、協議メンバーの一員でありながら、どこか蚊帳の外に置かれているその中途半端なわが国のポジションに納得のいかぬ気持ちがあったのである。
これは外交の世界においてわが国の力がいかにひ弱であるかをまざまざと象徴する事象でもある。当初、わが国では6カ国協議はどちらかと言えば拉致問題にウェートが置かれていたが、北朝鮮の核実験実施以降は関係国の関心は、かれら本来の関心事である核保有問題に一挙に収斂(しゅうれん)していった。これまで拉致問題を人道問題、国家犯罪と日本が声高に叫び、それをブッシュ・アメリカが後ろ盾となり後押しをしていたことも、北朝鮮を除く4カ国が協議テーマに挙げざるを得なかったことも偽らざる事実であろう。
しかし、11月の米中間選挙での共和党惨敗の結果を受けたブッシュ米大統領は、外交におけるイニシアチブを国内外で急速に弱める形となった。その影響がこの6カ国協議でも露わになってきた。そしてブッシュ・アメリカを強力な後ろ盾だと思っていたわが国も、ここへ来て一挙に北朝鮮に対する「対話と圧力」外交に多大な影響を被らざるを得ない状況とあいなった。つまり拉致問題については自力で解決の道を切り開いていく智恵と覚悟と行動が必要となってきた。しかし、これまでの対北朝鮮との二国間交渉のあり様を冷静に思い起こしてみれば明らかなように、わが国の自力外交という道は空虚な絵空事のように見えて心許ない。
この一週間ほど北京とワシントンから伝えられる協議再開に向けた動きを見るにつけ、この国は本当に自立した外交権をもった独立国家なのだろうかと真剣に憂うるしかない。自身の隣国が拉致という犯罪行為を重ね、国際社会の懸念を嘲笑うかのように核開発再開、続く核実験を実施したことにも自力で何ら効果的抗議すらできず、外交交渉でねじ込もうにも相手にだにされなかった。それではと6カ国協議という団体戦の一員に入れてもらっていたが、今度は北朝鮮から日本がこの協議に入る資格はない、権利もないと一方的に言われてしまう。その理由の一つが、「米国の属州であるから」という独立国家としては屈辱的なことまで言わしめている。本来、こうした発言に対しては、即座にその非礼を断じ、謝罪させるのが独立国家としての尊厳を保つ道であり、常道と考えるが、そうしたことを行なったとの報道にも接していない。
日米安保条約による米国の核の傘下での平和。非核三原則という国際社会に誇れる平和理念。それはそれでよいのだが、こうした近隣の理屈の通らない暴力的な国家を相手にするときに、こうした屈辱的な扱い、言動を封じる術をわれわれは有していない。安保条約が実質的軍事同盟でありしかもそれが片務的であることは、国際社会ではやはり米国の属国と見られても仕方がないのだろうか。これまでのように自国防衛を米国の核抑止力という他力本願に頼ったままで独立国家と言えるのか、その揺れる気持ちと、平和憲法第9条の60年余の重みとその評価されるべき実績とを天秤にかけたとき、正直どちらを選ぶべきなのか、屈辱的な外交の実態を見せ付けられると本当に悩みは深まるばかりである。