それでも、原子力発電は推進すべき(2011.5.7)
浜岡原発・全面停止要請で菅直人・政治家失格の烙印(2011.5.7)
わたしは昨年5月の段階で「それでも、原子力発電は推進すべき」との考えを表明した。
「当面、発電電力量の電源構成で26%(2007年)を占める原子力発電の既存設備の稼働を続けるべきである。 理由は一次エネルギーの自給率がわずかに4%という脆弱なエネルギー安全保障の現実を踏まえると、わが国の自主独立・経済基盤の安定を担保するうえでは、原料の供給安定性に優れる(=自国資源と看做してよい)原子力に、現状、依存するしかないということである」というのが、原発必要論の結論であった。
そして、その考えは今もって変わらぬ。
ただ、既存原発の稼働継続・再稼働の大前提として、
「それを国民に理解してもらうには、当然、設備の安全性を総点検し、今次福島第一原発事故の原因の徹底解明とその防止策(フォールトトレラント)の多重化・多様化の手当てが十分になされることが必要である。さらにこれまでの原子力推進政策のなかで意図的に議論されてこなかった問題についても詳らかにし、新規再生可能エネルギー技術の実用化可能性をにらみながら、新設も含めた原発の有効性について国民的議論が早急になされ、結論を求めるべきである。」とした。
わたしはその中で、それまであまり語られてこなかった原発発電コストの実態を試算し、原発の発電コストの優位性がこれまでマヤカシであったことを具体的事例として掲げた。また原発是非論を議論する際には、核燃料サイクル、老朽原発の廃炉、放射性廃棄物の最終処理、原発に代替すべき再生可能エネルギーの電力の品質、エネルギー安全保障の視点、温室効果ガス排出削減に資する電源構成等、多元連立方程式の最適解を導く必要があることに言及した。
いま、関西電力の大飯(おおい)原発(福井県おおい町)3、4号機の再稼働について政府は、夏場の電力需給ひっ迫を錦の御旗いや脅し文句として、拙速な再稼働を強引に実現しようとしている。
野田首相および枝野経済産業大臣は舌先三寸で原発再稼働に向け地元、関係者、国民の理解を粘り強く求めてゆくとしているが、やっていることは、ゴールデンウィーク明けにも再稼働したい(現状は原発ゼロの状況が発生することに枝野大臣が言及した)と、思考停止の再稼働路線を突っ走っているのが実態である。枝野大臣の再稼働に対する一連のブレ発言がこの政府の原発に対する腰の定まらぬその場凌ぎの姿勢を如実に物語っていると言ってよい。
福島第一原発事故から1年1カ月が経った今日、未だ福島県双葉郡の現場では昼夜を問わぬ給水冷却など現場作業員の健康を度外視した献身的努力でプリミティブな事故対応が続けられている。
福島第一原発の原子炉内の状況がほとんど明らかにならぬまま、事故原因の究明が進まぬのは当たり前である。そして事故原因が不明なまま、今後の安全対策の構築などどだい無理な相談だということなど素人でも分かることである。
当初、民主党がこの4月1日から発足させたいとして来た原子力安全・保安院、原子力安全委員会などを統合した原子力規制庁も、いまだその設置法案の国会提出段階でモタモタするなど、今後の安全対策を構築する組織自体が設立されていないという信じられぬ状況なのである。
そうした早急にやるべき最低限のこともやらずして、しかも将来のエネルギービジョンも提示されない政治対応のなかで、電力量の不足それも関西電力の言い値だけに耳を傾け、いま大飯を再稼働せず原発ゼロにすれば、「経済と生活がどうなるかを考えておかなければ、日本がある意味で集団自殺をするようなことになってしまうのではないか」(仙谷由人政調会長代行・名古屋市での16日発言)などと言い放つ輩(やから)まで出て来ることなど言語道断、不埒千万、恥を知れと言いたい。
こうした恫喝的、道理なき再稼働では、やはり原発は怖いもの、悪いものという思いだけが国民の心に刻み込まれてゆくのみである。
資源に乏しいわが国において冷静かつ緻密な原子力の平和利用の議論なくして、この過酷な原発事故を乗り越えての原発再稼働の話は、そもそも成り立たぬはずである。それはあまりにも当然な国民の常識、感情である。
今回のような無理筋の再稼働実施は、原子力の平和利用が日本から駆逐されぬまでも、原発に重い負い目を感じながら今後のエネルギー戦略を推し進めてゆかざるを得なくなることに思いを致さねばならぬ。原罪を負ったようなエネルギー戦略が国家の正当性をもった安定基盤になりようはずはないのである。
ある意味、ここがわが国のエネルギー戦略の切所ともいえる。ここで原子力について包み隠さずその必要コストやこれまでの安全基準のいい加減さ、放射性廃棄物の処分問題などにつきオープンな議論を行なうべきである。その一方で環境に優しいという再生可能エネルギーのわが国における実用性についても十分議論を尽くすべきである。
そして国の自立に深く関わるエネルギー安全保障についての議論も含め、経済、外交といった幅広いフィールドにも目を凝らした国民的合意形成が求められるのである。
そこで初めて原発を再開するか否かの決断をすべきである。
その間は、温暖化対策とは逆行することになるが、現状の政治の体たらくでは5年になるのか10年になるのか分からぬが、GTCC(ガスタービン・コンバインドサイクル)発電や重油火力発電、石炭火力発電で、現在の電源構成で26%をも占める原子力発電の穴埋めをしてゆくしかないのだと考える。発電設備の新設が必要となるので、償却費用などもちろん発電コストが一挙に電力料金に上積みされることになる。
その結果、当然、エネルギー自給率は急速に低下し、原油や天然ガス市況に翻弄される経済性においてボラティリティーの極めて高い電力を使わざるを得ない、つまり国際競争力で劣後する製造業に甘んじるということになる。
このように原発再稼働・脱原発依存にはまさに国民の深い理解と峻烈な覚悟が求められるのである。
だからこそ、素っ裸になって原子力の平和利用について、各種電源の発電コスト、電力需給、温室効果ガス規制の行方など具体的数字を明示したうえで、冷静かつ緻密で、透明性を高めた議論が国民の前、白日の下で、堂々としかも迅速になされるべきなのである。
今日現在の盗人に防犯基準を作らせたかのような安全基準とはとても呼べぬ基準で、大飯原発再稼働をさせることは、“それでも、原子力発電は推進すべき”というわたしでも断じて許すことの出来ぬ所業なのである。