神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1


1.不入の地、神籬磐境(ヒモロギイワサカ)の祭祀
 

   龍良山(タテラヤマ)

龍良山559m・雄龍良山(オタテラヤマ)・雌龍良山(メタテラヤマ))は古来、天道山」と云われ、天道信仰の聖地とされてきた。故に禁伐林であったため榊・柞(ユス)など老木の繁茂する天然記念物原始林である。雄龍良山麓には八町角(ハッチョウカク)と呼ばれる天道法師の墓所と伝える場所がある。そして雌龍良山の山中には天道法師の母の墓所と称するものがあり、八町角呼ばれている。対州神社誌には、「天道は豆酘之内卒塔山に入定す云々。母今のおそろし所の地にて死と云。又久根の矢立山に葬之と云」とある。


龍良山辺り

海側から龍良山方向を

ある書に「龍良山・・・558m、大字豆酘の東北に屹立し、対馬縦走山脈南端の最高峰である。旧名雄龍良または天道山といい、神山で多久頭魂神社の神籬磐境であり、頂上に烽火台の跡がある。」とある。


かように母神・子神崇拝は、対馬に深い縁故を有す神功皇后・応神天皇母子二柱を祀る「八幡信仰」にその起源を有すとも云える。


   清浄の神地たる不入の地、浅藻(アザモ)

 対馬の南端に位置する豆酘に向かって県道24号線を南下してゆく途中に「美女塚」がある。


  これは昔、采女(ウネメ)制度(大宝律令)があったころ、豆酘に鶴という美しい娘がいた。母一人娘一人の仲の良い母娘であった。その鶴が采女として遠く都へと召されることとなった。鶴はその母一人を残し生まれ育った村を離れて行くのがつらく、役人に連れて行かれる途中で、「これからはわたしのような辛い思いをさせぬように、豆酘には美人が産まれぬように」と祈り、舌を噛み切って死んでしまったという。母や村人は村思い、親思いの鶴を深く哀れみ、「鶴王御前」と呼び、その命を絶ったという峠辺りに「美女塚」を立て弔ったという。対馬では実際に「豆酘美人」という言葉があり、昔から豆酘が美人の産地であったのは確からしい。


  天道法師が帝から病治癒の御礼に何なりと願いを聴くと言われた際に、その一つに「対馬撰女」すなわち対馬から采女を召し出すことを免じて欲しいと申し出ている。

 

 このことはこの「美女塚」にまつわる哀しい話が当時すでに人口に膾炙していたと思われ、また天道法師自身の母親がその素性を「内院女御」と呼ばれたことから、采女として召し出され、そうした母娘別離といった哀しい過去を背負っていたのかも知れぬと想像したりする。


 内院にある美女塚には天道法師伝説と深く関わる話があるように思えてならぬのである。

 さて豆酘(ツツ)村は、大きく分けて豆酘と浅藻(アザモ)に分かれている。


豆酘から浅藻への道
豆酘郵便局


  鈴木棠三(1911-1992)が「対馬の神道」を表わすために対馬入りした昭和12年(1937)時点は、「現在の浅藻の村ができたのは、明治何年かに中国筋の漁民が移住して以来のことである。(中略)豆酘と浅藻の距離は一里半余りであるが、浅藻には豆酘の本村から移住した家は全くなく、「内地」からの移住者のみから成り、通婚も最近の一二の例を除く他は、国元から配偶者を連れて来ているようだ」とあり、明治まではこの豆酘村の浅藻地区は不入の地として人が住むことはなかった。


浅藻湾
コモ崎からの景色

 しかし、明治初期に中国地方より漁民が移り住んで以来、人が住む土地となったが、もちろん、その移住者が死に絶えるなどということはなかった。


 ただ、豆酘の村人は死人のあった忌明けには、卒塔見(ソトミ)と称して、コモ崎の上に登り、眼下に見える浅藻の入江に向けて小石を投げて、後ろを見ずに帰る風習がつい先年まで残っていた。神地としての地元民の尊敬は残されていた。


浅茅近くの卒塔(ソト)山(天道山)山腹が天道法師が亡くなった地であり、「もし汚穢の人がその地に入れば、たちまちにして神罰が降り死に絶える」との言い伝えが古来、村人により守られて来た事実は重い。

この天道信仰と対馬の神社との関係を記すと、藤仲郷の説を採用した「津島紀事」(平山東山著・1809-1810)のなかで、「浅藻(アザモ)の八丁角が延喜式内多久頭魂神社の磐境、裏八丁が高皇産霊尊の本社」と推定されている。