11月21、22日に愛知県の中央部東北寄りにある足助(あすけ)町・香嵐渓(こうらんけい)を訪ねた。
足助町はかつて、岡崎や名古屋から信州へ向かう中継地として栄えた。藍や魚、塩などを岡崎街道や巴川(矢作川)、伊奈街道(別名、中馬街道、飯田街道)を利用し信州へ運び込んだという。 そのため足助町には旅籠や置屋がたくさん軒を連ね、賑わいを見せていたが、時代の趨勢とともに衰退した。しかし、今日現在、足助のその古い街並みは汲々とした日常にくたびれた現代人の心をいやす場所として、巴川沿いの名勝、香嵐渓の紅葉を観賞する処として脚光を浴びている。 足助町の紹介は別稿に譲るとして、本稿においてはここ数日が見頃である香嵐渓4000本の紅葉について語ることにする。 21日の9時過ぎに車で東京を発ったわたしたちは、途中、駒ヶ岳SAで昼食をとり、鋭意、香嵐渓を目指したが、東海環状自動車道の藤岡ICを降り、国道153号線へ入ると大渋滞に巻き込まれ、当日の宿、待月橋(たいげつばし)袂の“香嵐亭”に辿り着いたのは陽のとっぷりと落ちた5時半過ぎであった。 宿の女将の“食事を早々にとり、ゆっくりと紅葉のライトアップを愉しむべし”との適切なアドバイス通りに、午後7時過ぎには待月橋の雑踏のなかに入り込むことができた。 飯盛山全山にライトアップがほどこされ、ライトの加減で黄色く見える夜の黄葉をそれこそ豪勢に堪能した。 途中、足助屋敷の辺りの飲食店では、多くの観光客、地元民が入り混じり、“花より団子”に興じていたのには、日本人の花好きも花が好きなのか、花の下での宴会が目的なのかと、微笑ましくも見えたものである。 こちらは食事後ということで、香ばしい団子の匂いに微塵も動じることなく、ただ一心に黄葉の美しさに、目の保養をさせていた。 平日というのに家族連れや若いカップルで香嵐渓の散策道は人影をなくすことはなかった。 そしてそこかしこで自慢の一眼レフやスマフォでパチパチと自称プロカメラマンやにわかカメラマンが活躍していた。 その日はニ時間ほど夜の紅葉の競演を愉しみ、宿へ戻った。 翌朝は雲がうすく空を覆っていたが、天気である。 部屋からの待月橋や飯盛山の写真である。 香嵐渓は飯盛山の西側斜面に当るため、朝陽より西陽が美しいのだと家内が云った。なるほどそうである。朝陽の蔭に当るため、せっかくの紅葉に精気が見られぬようで、もったいない。 朝食後、すぐに、紅葉狩りへと出立した。 まずは観光客が繰り出さぬうちに、飯盛山の中腹にある香積寺へ向かった。江戸初期(1634年)、当寺の11世参栄禅師が楓や桜を香積寺参道沿いに植栽したのが、紅葉の名勝、香嵐渓の嚆矢とされる。 その香積寺の紅葉はその山門や本堂の甍と相和し、秋の風情を一幅の絵画のようにして思う存分楽しませてくれた。 また、寺の奥を登ったところに十六羅漢像や橙の住職の墓石が並ぶが、その高みからの景観は、さらに絶景であった。 そこに眠る参栄和尚もさぞかし鼻高々であろうなと思った。 寺を降り、足助屋敷前の広場に至ると猿回しの芸が披露されていたが、既に観光客の人垣でいっぱいである。 こうした演し物には日頃からどちらかというと冷淡であったのだが、隙間からちょっとだけ覗き見ようと思ったものが、“タケオ君(猿)”の表情や仕草がまことに愛らしく、結局、最後まで見てしまった。 大道芸、おそるべし!!である。 キャッキャッ云ってるわたしを横目で見て、家内は“花よりお猿さんなの”なんて冷やかしておりましたな。 何を言ってる! 自分も結構、愉しんでいたくせに・・・。だから“とかく女は五月蠅いものだ”と言われるのだ! そんなこんなで香嵐渓をとことん歩きつくし駐車場へと向かう際、地図と方向感覚にめっぽう強い家内が“巴橋を渡って行きましょう”と云う。 巴橋がどこやら知らぬ、既に疲労困憊のわたしは“うん”と頷き、抵抗の余力もなくトボトボと家内の背中をただ見つめながら歩いて行った。 気づくと橋の途中でオイデ!オイデ!をしているではないか。くたびれた左足を引き摺りながら欄干に手を置き、飯盛山を眺めると・・・ あぁ〜!! 陽光を浴びた紅葉、黄葉が見事にわたしの目を射抜いた。 やはり自然の光があってこその紅葉と感じ入った次第である。 巴川に映る紅葉の揺らぐ色彩もまた見事であった。 まだ山中の楓は緑色である。香嵐亭の女将が云っておられたが、“表面の楓が落葉すれば中の楓が紅葉する”と。 4000本の香嵐渓の楓。その盛りは今週末くらいまでは続きそうである。ぜひ、足を運ばれ、紅葉狩りに興じてみられてはいかが。