香取神宮の要石は、地上に顕れた部分は径が3、40cmほどの楕円形の円味を帯びた凸型をしている。

一円玉と要石
一円玉と凸型要石

香取神宮の聖地たる奥宮へ向かう途中に、護国神社の少し奥に石柱に守られ隠れるように鎮まっている。

要石から護国神社を
要石から護国神社を望む
石柱の中に要石

折しも、頭上から樹間をぬけた陽光がしずかに舞い降り、静寂の地はさらに息をひそめている。

要石に差込む光芒

静謐とはまさにこれを言うのであろう。地に落ちた日差しに濾過されたかのように身が清められ、この地が霊気を充溢させていることは、黙って佇んでいるだけでわかる。


さて、「香取神宮少史」は“要石”について次のように紹介している。


「古傳に云ふ、往古、香取・鹿島二柱の大神、天照大御神の大命を受けて、葦原の中つ國を平定し、香取ヶ浦の邊に至った時、この地方なほただよへる國にして、地震(なゐ)頻りであったので、人々甚(いた)く恐れた。これは地中に大なる鯰魚(なまづ)が住みついて、荒れさわぐかと。

大神等地中に深く石棒をさし込み、その頭尾をさし通し給へると。當宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部をあらはし、深さ幾十尺。

円みを帯びた凸型
香取神宮の凸型要石
鹿島神宮の凹形の要石
鹿島神宮の凹型要石


貞享元年(1684)三月、水戸光圀、當神宮参拝の砌(みぎり)、これを掘らしたが根元を見ることが出来なかったと云ふ。當神宮楼門の側の“黄門桜”は、その時のお手植である。」

黄門桜
楼門脇に植わる”黄門桜”

水戸黄門の時代に既に、香取神宮と鹿島神宮の“要石”が地中深くで地震を抑え込む“妖石”であるとの民間伝承が存在していたことは、この地が古来、何らかの霊力を持った聖なる場所で思われていたといってよい。


現に香取神宮奥宮の入口付近に残る雨乞塚は、聖武天皇の御代(天平4年・732年)の大旱魃の折、雨乞を祈念するため造られた塚の史蹟だという。

突当り石段、奥宮
雨乞塚から奥宮を望む

この事実こそが、この地が古来、霊験神秘な場所であるとして庶民が畏敬してきたことを如実に物語っている。

雨乞塚駒札

明治初期の香取神宮少宮司で国学者であった伊能穎則(ヒデノリ)は、地震を抑える要石について次の和歌を残している。


“あづま路は 香取鹿島の 二柱 うごきなき世を なほまもるらし”


安政の大地震(1855年)が起きた際に、地震を起こす大鯰の頭を武甕槌神(タケミカヅチノカミ)が剣で突き刺す鯰絵を描いた鹿島神宮のお札が流行したという。


伊能穎則の和歌に詠われているように、香取・鹿島に鎮まる要石が地中で地震を抑えているのだという伝承は江戸時代後期に巷間に広まったようである。

凸形要石
この下で大鯰の尾を抑えているという

ちなみに、鹿島神宮の要石が大鯰の頭を、香取神宮の要石は尾を押さえているとのことで、また、この二つの要石は地中深くで繋がっているのだという。

鹿島神宮の凹型要石
鹿島神宮は大鯰の頭を抑えているという

それにしてもこうした要石というパワースポットにおいても、香取神宮と鹿島神宮はやはり対の関係にあり、凸形と凹形で一体となるのだと言わんばかりである。


また、香取海(カトリノウミ)の入り口の両岬突端に相和すように鎮座し、下総・常陸など関東平野へ侵入を図る敵への防禦策も、両地点に両神宮の存在があってこそ、その戦略目的は完璧に遂行されることになる。

そうした符牒に、経津主神と武甕槌神という二柱の神が中つ國平定を成し遂げた“人物”と“聖剣”の両者をそれぞれ神としたという私の推量にも、その不即不離、表裏一体の関係という点で、あながち荒唐無稽な説ではないのかも知れないと考えた次第である。