東尋坊を後にしていよいよ謎多き継体天皇(26)の伝承が多く残る福井県こと越前国へと分け入ってゆくことになる。

その越前国について簡単な説明をしておく。

全国を68か国に区分けした令制国(りょうせいこく)制度 (大化二年(646)の「改新の詔」にはじまり大宝律令、養老律令により整備された地方統治機構)において越前国は、国力基準(大国・上国・中国・下国)では「大国」13か国の一つで、日本海側では唯一、大国に分類されている。

また都からの距離基準(畿内・近国・中国・遠国)では、「中国」16か国の一つとされている。

このことから令制国制度が整備されていった7世紀から8世紀初頭にかけて、越前国は日本海諸国のなかで一頭地を抜いた国力を有する強国として認識されていたことがわかる。

その繁栄の礎を築いたのがこの地に多くの伝承を残す男大迹王(おおどおう)、のちの継体天皇であるという。

々谷(しゃくだに)石で造られた継体天皇の石像
足羽山公園三段広場の頂上に建つ継体天皇石像
その代表的なものを記すが、足羽神社に伝わる『越前国神社明細帳』などに残されている。

  日野・足羽・九頭竜の三河川のたびたびの氾濫で泥濘地から巨大湖(琵琶湖の約1/5)へ変貌したが、三国辺りで堰堤に水門を開き、湖水を日本海へ落とすことで肥沃な福井平野を創出した

  九頭竜川周辺の砂鉄から製鉄業を興し、刀剣など武具は勿論だが鉄製農具により灌漑用水の整備、農地の開墾を飛躍的に進めた

  男大迹王が壊れた冠を片山集落(鯖江市)の塗師に修理させたところ、見事に冠を修復し、加えて黒塗りの漆椀を献上。その出来栄えに感服し漆器づくりを奨励した

  男大迹王の時代に、川上御前(本邦唯一の紙の祖神)が村人に和紙漉き技術を伝え、日本三大和紙の一つとして最高品質の越前和紙技術をいまに残す

など、越前国の産業勃興にかかわる継体天皇伝誦の数の多さには驚く。

しかも畿外の地域でこの種の伝誦を数多残す天皇は私の知る限りこの継体天皇のみである。

‖羽山から福井市街が一望できる
継体天皇像から見渡す福井市内 

そんな継体天皇は応神天皇(15代)の5世の孫とされ、放埓暴虐を極めた武烈天皇(25代)が崩御され皇統が絶えなんとしたことを受け、仁賢天皇(24代)の皇女(手白香皇女(タシラカノヒメミコ))を娶り皇統をかろうじてつなぐこととなった。

書紀・継体紀(即位前紀)はその父母について、

「彦主人王(ヒコウシオウ)は近江国高島郡三尾(滋賀県湖西地方の北部)別邸から使者を遣わし、容貌端麗な振媛(フリヒメ)を三国の坂中井(=さかない・福井県坂井郡)より迎え、妃とした」と記す。

男大迹(オオド)はその父母の間に嫡嗣として近江で生まれた。

だが幼年時に父を失い母とともに郷里である三国の高向へ戻り、武烈帝の後を襲い即位する57歳までこの地方で王として威勢を張ることになる。

 

さて、応神天皇の五世の孫が皇統を嗣いだ経緯を詳らかに理解することは、昨年12月22日に岸田総理大臣に手渡された「皇位継承にかかる有識者会議」(座長 清家篤・元慶應義塾塾長)の最終報告書の内容を沈思潜考するうえで、きわめて示唆に富むものと思料する。

 

皇位継承にかかる有識者会議・最終報告要旨

制度的安定性が極めて重要で皇位継承の議論は機が熟していないとしたが、皇位継承の問題と切り離して皇族数を確保することは喫緊の課題であるとし、その方策として、

一、女性皇族が結婚後も皇室に残る 

二、旧皇族の男系男子を養子に迎える 

という二案を提示。

 

ここでいう旧皇族とは世襲親王家・臣籍降下宮家をいうものと理解するが、これが男系皇統をつなぐキーワードとなる。

 

そこで、皇族の定義についてであるが、大宝令(701)の原文が現存しないため、その後実情に合わせ改修した養老令(757)にまでさかのぼる。

養老令の全30編の第13「継嗣令」の1「皇兄弟子条」に、「親王より五世は、王の名を得るといえども皇親の限りにあらず」とされている。つまり、天皇の御子である親王を1世と数え、5代目は皇族にあらずということである。

 

また「続日本紀」によると大宝元年(701)3月に「初めて新令(大宝令)に基づいて官名と位号の制を改正した」とあり、それにつづく、新たな位階毎の服装を定めたり、中納言の官職が廃止されるなどの具体的記述をみると、大宝令が養老令と同程度に実態を伴ったものであったことがうかがわれる。

 

その「続日本紀」慶雲3年2月庚寅条(文武天皇・706年)、上記の養老律令発布の50年ほど前、大宝律令発布の僅か5年後に、大宝律令の7項目の改正が実施されている。

その「格・全7条発布、その7条」で、「継嗣令によると、天皇から五世の孫に相当する王は、王という名を得ているが、皇親(皇族)の枠にははいらない。現在、五世の王は皇親の籍から切り放し、臣下の扱いにしている。しかし親族をいつくしむ情からは戸籍を断ってしまうことに、心の痛みを覚える。今後は五世の孫も皇親の範囲に入れることとせよ」と、継嗣令の大改正が行われた。すなわち、天皇の皇子親王(1世)から五世の子孫までを皇族とするとこれまでの一代先の子孫まで皇族の範囲を広げたのである。

この改正により武烈天皇で途絶えようとした皇統を応神天皇5世の孫とされる男大迹王が皇統を嗣ぐにあたって正統性と法的根拠が与えられたことになる。

ではなぜ706年という年にこうした大改正が必要だったのか。

その時代、天皇の系譜を眺めるに皇統が絶える心配など微塵もないのにである。どうしても改正せねばならなかった必然性を次のようにわたしは考えている。

この時期、現在記紀と呼ばれる「古事記」(712)・「日本書紀」(720)の編纂の中身がほぼ固まったものと思われる。

そのなかで、天照大御神からの天孫族としての血統を時の天皇である文武天皇につなぐ正統性を示すには、武烈帝で途切れた皇統を継体帝につなぐ理屈をつくる必要に迫られた。そこで、急遽、継嗣令の改正に至ったと・・・。

皇統をつなぎ守ったわれわれの先祖の苦衷の選択を物語るはなしである。

 

そうした悠久の謎と先祖の智慧を胸に秘めて、東尋坊からわずか3kmのところにある九頭竜川河口の三国湊へと向かったのである。