彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

靖国神社参拝

公約は守るべきもの---靖国参拝1

「公約は守るべきもの---靖国参拝」

 

 小泉総理は9日、長崎市内において、8月15日の靖国参拝に係る記者団の質問に対し「公約は守るべきものだと思う」と答えた。

(http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060809i305.htm)      (06.8.9読売新聞)

 

靖国神社

靖国神社3

遊就館前景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冒頭の発言をした同人物が、3年半前の衆議院予算委員会(03.1.23)において、時の民主党代表菅直人議員に対し、次のように言い放ったことを国民は決して忘れていない。

 

8月15日に靖国神社へ参拝すること」「国債30兆円枠を守ること」「当初予定通りにペイオフ解禁を実施すること」という国民への三つの公約の履行について菅直人議員に質され、

「確かに約束はしたが、自分の国民に対する最大の約束は『行財政改革』であるから、その大きな問題を処理するためには、この程度の約束を守れなかったのは大したことではない」と答弁した。

 

後日、「不適切な発言であり反省している」と謝罪はしたものの、当時、小泉総理の「大したことない」発言が、大きな顰蹙(ひんしゅく)を買ったことをまだ、国民は忘れていない。その同じ人物の口から、「靖国参拝」について「公約は生きているから。守るべきものだと思う」と、したり顔で言われた日には、国民は一体どのような顔をしてこの人物の言葉を受け止めたらよいのだろうか。

 

「政治家は言葉が命」とよく言われる。真にその通りだと思う。

 

自分のその時々の都合で、「口から出任せ」とカメレオンのように「変節」する。いや、変節とはそもそも「節」がまずなければ「変じる」ことは出来ぬから、表現が不正確であった。「ああ云えばこう云う」、そう!そんな言葉遊びといおうか、自分の発言に何の責任も感じぬ人物、およそ政治家という職業に不適切な人物であったと、断じざるを得ない。

 

 中国、韓国をはじめとするアジア諸国との関係に重大な悪影響を及ぼす靖国参拝、それも終戦記念日の参拝を、この「ああ云えばこう云う」人物は、「公約は守るべきもの」と口ずさみ、何か国民に罪を押し付けるようにして敢行しようとしている。

 

 そんな公約こそ「大したことではない」のだと、国民は言い返している。そのことがこの人物の耳には届いていないのだろうか。いや、いや、これから暑くて長い夏が来そうである。

 

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昭和天皇 A級戦犯合祀(ごうし)が靖国参拝の中止の原因5

昭和天皇A級戦犯合祀が靖国参拝の中止の原因

 

靖国神社靖国神社2靖国神社3 

 

 

 

 

 

 

 

 

「小泉施政五年の総括」をこのブログで行なっている最中に、(http://hero1945.livedoor.biz/archives/cat_10006317.html

靖国参拝問題を論ずるうえでとてつもなく貴重な資料が公表された。内閣の首長である内閣総理大臣が靖国神社を参拝するということが、どのような意味を持ち、それがアジア諸国との関係に大きな影を落としていることが、何故、問題にされるべきなのかを、明快に解き明かす必要で十分な資料である。

 

それは、720日の日経新聞一面に掲載された、昭和史のなかでも超一級の価値を持つ故富田朝彦氏(元宮内庁長官 在職78.588.6)のメモである。以下に富田メモの靖国部分全文を原文のままに記載する。

 

『私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが      

筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが

松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている

だから、私あれ以来、参拝していない それが私の心だ』

 

 昭和天皇が昭和5011月を最後に、靖国神社への参拝を行なわなかったわけがとうとう明らかにされた。これまで陛下が国の為に命を落とした赤子(せきし)のために戦後8回も続けてこられた靖国神社への参拝を、昭和50年を最後にピタッとお止めになられた理由について、二つの憶測が流されていた。

 

 ひとつは、昭和50年8月に時の総理三木武夫が首相として初めて終戦記念日に参拝を行ない、その時以降、総理、閣僚が参拝する際に、「公人」「私人」どちらの立場で参拝を行なったかが、必ず問われるという、靖国参拝が英霊の鎮魂という行為から離れて、つとに政治問題となったとする意見。

 もうひとつが、昭和5310月(88.10)のA級戦犯14人の合祀にあるとする説である。合祀の事実が表面化したのは、半年後の昭和544月(89.4)であったが、合祀を不快として昭和天皇が一切、それ以降、参拝を中止したとする説であった。

 

 靖国神社は「公人・私人議論が激しくなり、天皇は当然、公人であるから参拝を中止された。A級戦犯合祀とは無関係」と主張してきた。しかし、当の天皇は89年に薨去(こうきょ)されるまで、その理由については一切、口を閉ざされたが、今回、肉声ともいうべき聞き書きメモが出てきた。この内容は正に上述の参拝中止の憶測議論に終止符を打つ、明快なものである。

 靖国神社大村益次郎遊就館遊就館前景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、記事の出た20日午後、小泉総理は自らの靖国参拝に与える影響について「ありません。それぞれの人の思いですから。心の問題ですから。強制するものでもないし、あの人が行ったからとか、いいとか悪いとかという問題でもない」と語った。今後の靖国参拝について聞かれて、「それぞれの人の思い」、「心の問題」と、他人事のように片付ける小泉氏(これから、敢えて個人名で呼ぶことにする)。行政府の長、三権分立といいながら実質、国家の最高権力者たる「総理」というポストをどのように考えているのであろうか。一市井の個人であれば、憲法で思想・信条の自由が保障されているのだから、靖国神社を参拝する行為は全く問題とされないことは当然である。

 

しかし、小泉氏は誰が何と言おうが、「内閣総理大臣」なのである。そして、内閣総理大臣とは憲法第65条の「行政権は、内閣に属する」に続く第66条において「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」とされている。そのうえで、第73条において「内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行なう」として、その第二項で「外交関係を処理すること」をその重要な責務と定めている。

 

 わが国の外交関係の処理の最終責任者は、内閣の首長たる「内閣総理大臣」にあることは、こんな憲法まで引合いに出さずとも自明である。しかし、こと「小泉氏」には、憲法を示さねば、「あなたが首長である内閣は国民から外交関係の処理を全面的に負託されているのだ」という己の責務を理解して頂けないのではないかと、老婆心ながらこんな失礼なことを申しているのである。

 

「それぞれの人の思い」、「心の問題」とそれこそ「易々(やすやす)と」口になど出してもらいたくない。為政者として、思慮なき靖国参拝というパフォーマンスによって、日中・日韓関係に留まらずアジア外交に大きな亀裂を生じさせ、国益を大きく毀損(きそん)させた「小泉氏」の「内閣総理大臣」としての責任は極めて大きい。

 

昭和天皇に「(国民を戦地に送り、生命を奪った)A級戦犯の合祀が参拝を中止した私の心だ」と言わしめた意味は重く、その悲痛なお心を察するに云うべき言葉を探し出すことはできぬ。国民の象徴たる天皇は、A級戦犯合祀という行為が持つ意味をよく理解され、それが周辺のアジア諸国との関係にどのような影を落とすかを瞬時にご理解され、ご自身がなされるべきことが何かを即座に悟られたのだ。今回の富田メモはアジア外交において窮地に立つこの日本を救ってくれるのかも知れぬとも思う。

 

それに反し、小泉氏の今回の反応はあまりにもダル(Dull)である。もし、この8月15日に参拝を決行することにでもなれば、これまでの罪どころではなく、後世の国民にまで大きな重荷を背負わせてしまうことになると断罪するしかない。

 

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アジア外交の修復3

「アジア外交の修復」

 

現在、小泉総理の靖国神社参拝により中国・韓国のみならず、東南アジアの国々との外交がしっくりきていないことは周知のことである。うまくいっていると盲信しているのは小泉総理一人といってよい。

 

 今を去ること約30年前の77年8月、東南アジアを歴訪した福田首相は最後の訪問地マニラで演説し、東南アジア外交の3原則を語った。(1)軍事大国にならない(2)心と心の触れあう関係(3)対等な協力者の立場、であり、これがいわゆる福田ドクトリンである。30年前に唱えられたアジア諸国との外交の基本的な考え方である。今日、このドクトリンを見ても、まったく違和感はなく、日本外交の磁石の針は、かえってその逆方向に向いているといった方がよい。

 

 歴史に「もし」はないと言うが、このドクトリンに基づきアジア外交を続けていれば、今日、わたしたちが目にする近隣諸国との外交の風景はおよそ異なった景色になっていたのではなかろうか。そして、アジア諸国からの尊敬を集める頼りになる兄貴分の地位を勝ち得ていたのではなかろうか。この30年間、中国が文化大革命(1966~1976)によってこうむった内政外交の遅れを、重厚かつ巧妙な国家戦略のもとに取り戻していき、冷戦終了後の米中二大国時代を築きあげるところまで来たことと考え合わせると、詮無いこととはわかりながら口惜しくて、残念で堪らない。

 

 21世紀における東南アジア外交をどう構築していくのか、福田ドクトリンの3原則を想起し、今一度、アジア諸国との関係修復に抜本的な議論を行ない、具体的対処策を策定すべきである。その中核は当然であるが、靖国参拝問題をふくむ歴史認識について国は真摯に採り上げ、真正面から国民をふくめ論議を尽くすべきである。村山内閣時代に戦後50年を期して、村山談話を閣議決定のもとアジアに対して発信したが、その歴史認識はその後の政府閣僚の不用意かつ不誠実な失言、行動によりほぼ御破産になっているといってよい。誠に見っとも無く情けない話だが、A級戦犯の分祀など靖国問題に結着をつけ、具体的行動を伴なった明快な歴史認識を、ポスト小泉政権はアジア諸国に対し発信すべきと考える。

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