彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

雷大臣命

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)
 

 比田勝港を見下ろす権現山(標高186m)の中腹に鎮座する能理刀(ノリト)神社は、その名前が示すように「祝詞」に関わりの深い神社である。

 

拝殿前から西泊の港を見下ろす
拝殿前から西泊の港を見る
 

能理刀神社の由緒書
一之鳥居脇に由緒書(左に本殿への急な石段)

 

(能理刀神社概要)

    住所:上対馬町大字西泊字横道218

    社号:氏神熊野権現/西泊能理刀神社(大小)/能理刀神社(大帳・明細帳)

    祭神:素戔鳴尊(大小)/宇摩志摩治命(注1・2)・天児屋命・雷大臣命(大帳・明細帳)

(注1)  物部氏の祖。ニギハヤノミコトの子。

(注2)  藤仲郷の説では「宇麻志麻治命は久慈真智(クシマチ)命にして、太詔戸(フトノリト)と共に卜庭(サニハ)神であり、この二坐を併せて太詔戸神ということもある」としている。また、京中2座の注釈にある久慈真智(クシマチ)命の本社とされる天香山神社には、久慈真智命が深くうらないにかかわり、対島の卜部の神であったとの話も伝わる。(10太祝詞神社より)

 

    由緒 

昔、老人夫婦が能理刀神を小舟に乗せて、邑の西北の隣ヶ浜に来り。殿を造り留り居れり。其の所に榎木あり、衣掛けと云う。後に、現在のこの地に移し祭りて、〔その後〕老人夫婦が行去る所を知らず。此の地は神功皇后の新羅征伐の時、〔戦勝祈願をした〕行宮の古跡也。亀卜所の神を祭り、在る時、異艦西泊、比田勝二つの邑の浦に寇せり。州兵、是を防ぐ時、始め〔殿が〕在りせし隣ヶ浜の上手なる山半腹より大石三つ落ち来り、異艦を覆し破る。異賊迯げ去りて行方を知らず。其の石今に存せり。(明細帳)

 

赤字部分同一に続いて)其の時代は京都より対馬守〔の格〕は御下の頃也。昔、當浦より比田勝浦にかけ蒙古の賊船数千艘酉刻頃に入船す。昔、此の神初めて着船の浜?(ナラビ)に奥の浜に賊船二、三艘着の時、里人騒動して此の神に祈れば、忽ち神が有りて、此の神、山の並び脇の山頭(トウゲ)六、七合目の處の地中より大石三つ飛び出し、彼の賊船悉(コトゴト)く、覆し碎(クダ)く。其の響きに恐れ、其の夜中片時の間に沖の船一艘も見へず、散じて失(ウエ)けり。右の大石今にあり。四五百年以前までは此の大石の下に賊船の板木見たりと云へり。扨(サ)て當浦の外目に昔、此の神の最初に着きせ玉ふ浜辺に、朝日が出る前に里人至れば、年の頃六十歳ばかりの御形にて、冠を召し至りて、貴き官人座ませり。是を見奉りて、里に帰り即ち死す。其の後も彼の處に未明に至ると即ち死す。それより此の浜へ〔里人は〕朝至らず。・・・(大帳)

 

能理刀神社の一之鳥居
能理刀神社の一之鳥居
 


 能理刀神社の大権現扁額

熊野三所大権現神を顕す「大権現」の鳥居扁額

 

能理刀神社の急勾配の石段
石段が続く

 

以上の由緒に、老夫婦が「能理刀神」を船に乗せてやって来たとある。さて、その「能理刀神」即ち、「祝詞神」とは一体、何者かということだが、当社の祭神として「大帳」および「明細帳」に記されているのは、天児屋命(アマノコヤネノミコト)、宇摩志摩治命(ウマシマジノミコト)および雷大臣命(イカツオミノミコト)という占い神事の宗家ならびに占いに深く関わる神々である。

 


 
漸く趣のある拝殿へ


能理刀神社拝殿正面
 
拝殿正面

 

能理刀神社の拝殿内部
拝殿内

 

主祭神はその三柱のうちのいずれかということになろう。これまで紹介してきた対馬所縁の諸々の伝承から考えると、津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也云云」(「姓氏録」より)とあるように、対馬縣主の祖である雷大臣命かその祖である天児屋命のどちらかとするのがふさわしい。

 

能理刀神社拝殿内から本殿を
 
拝殿内から本殿を見る


能理刀神社の拝殿奥の本殿と境内社
 
本殿・手前が拝殿・左は境内社

 


本殿

 

さらに、当社のそもそもの鎮座地はいまより少し西北の同じ権現山の山麓にあった。その地が明細帳の由緒では、神功皇后の新羅征伐の際の行宮の古跡であり、亀卜所の神も祀ったとある。そのことを踏まえると、ここの主祭神は皇后に随行した雷大臣命と比定するのが至極妥当である。

 


西泊の港、ここに大石が三つ落ち、異国船を沈める

 

美津島町加志にある、太詔戸命、即ち雷大臣命の祖である天児屋根命と、加志に住居し亀卜に従事した雷大臣命自身を主祭神とする太祝詞(フトノリト)神社のことを考慮しても、能理刀神社の方は雷大臣命を主祭神とするのが自然である。

 

 その能理刀神社は外部の人間には非常に分かりづらい場所にあった。湾に沿って突端近くまで行ったがどうも場所が分からず、途方に暮れていた。近くにお婆ちゃんを見つけたので早速、尋ねたところ、「それは、うちの神社じゃ」と場所を教えてくれたのである。さらに、「車は公民館の前に止めるとよい」と言ってくれた。お礼を言い、車をUターンさせ、ゆっくりと注意深く右手の家並みを眺めながら進むと、先ほどのお婆ちゃんがスタスタと追い越して行くではないか。

 

 そして、お出でお出での手招きである。家並みから少し引っ込んだところにある公民館前の小さな空き地まで先回りしてくれたのである。しかも、車を降りたわれわれ夫婦に、階段の下まで案内してくれると云う(娘は車の中で休憩すると云って、畏れ多くも能理刀神に御挨拶をしなかった)。恐縮したが、お婆ちゃんは「さぁ、どうぞ」と個人のお宅の裏の道というより、庭?、筋?に入ってゆく。

 

 こちらも、こりゃ、ちょっと大変と、お婆ちゃんの後に続くことにした。何しろ、不審者として咎められたら一大事である。10軒ほどのお宅のオープンな裏窓を横目に見ながら進むと、袋小路の突き当たりのような場所に出た。右手に急峻な階段があった。

 

能理刀神社の登り口
 
袋小路の突き当りのような場所(石段の上から)

 

能理刀神社へこの石段を昇る
 
この狭くて急峻な階段を昇って本殿に到達する(袋小路から)

 

「ここの上だよ」と、お婆ちゃんは言った。短い言葉であったが、ありがたい言葉であった。こちらに何を尋ねるわけでもなく、「うちの神社」へ案内してくれたお婆ちゃん。お礼を言うと、お婆ちゃんは、もう踵を返し、元へ戻って行った。その何とも言えぬ素朴な心遣いに心がじわ〜っと温まってきた。

 

対馬の西泊のお婆ちゃん、本当にありがとうございました。お陰で、お婆ちゃんの「能理刀神社」を拝ませていただくことができました。

 

あと、一之鳥居手前右手に西福寺(サイフクジ)というお寺がある。そこに「宗晴康の供養塔」との標示板があった。宗家第15代当主の晴康(14751563)のことであり、引退後(1553)に当寺に隠棲し、没後、そこに菩提を弔った。ちょうど一之鳥居の右手辺りに立つ宝篋印塔が晴康のお墓である。

 

西福寺の本堂と宗晴康供養塔標示板
標示板と一般家屋のような西福寺本堂

 

宗晴康の宝篋印塔
 
宗晴康の宝篋印塔

 

同寺には、また県指定有形文化財の「元版大般若経」約600巻があるが、その内の約170巻が20061月に盗難にあい、まだ解決を見ていない。「大般若経」は中国杭州普寧寺で元朝1326年の作成された貴重な元版であることが、巻末の記載から分かっている。宗家第8代当主である宗貞茂(〜1418)が西福寺に寄進していることから、1418年以前に当寺に収蔵されたことになる。

 

同寺の縁起に「大陸からの使者は、まず西泊湾に停泊し府城に向かっている。西福寺はそれら使節の宿泊所でもあった。西泊は、大陸文化が最初に入ったところであり、多くの歴史を秘めた名所である」と記されている。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 11(霹靂(ヘキレキ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

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神の宿る海

水際に立つ鳥居

 当社は、対馬神道の元祖である雷大臣命(中臣烏賊津使主(ナカオミノ・イカツオミ))を祀る清浄なる雰囲気に包まれた神社である。鴨居瀬住吉神社や後に語る曽根崎(ソネザキ)神社と同様に参道は海路につながり、水際に一之鳥居が立つ。

神社裏手、朝日山古墳の脇に立つ鳥居から入る

 

右手が朝日山古墳・正面左手が拝殿

切り通しを出て小さな境内に

 陸上からのアプローチは神社裏手にある切り通しに立つ鳥居を抜け、朝日山古墳の真横を通り猫の額ほどの海辺に出る。その小さな場所が当社の境内ということになるが、拝殿前に立って見ると分かるが、この神社を創った人々は、境内はどう考えても海の上であると考えていたに違いないと、確信に似た思いにとらわれるのである。

小さな境内

神秘的で鏡のような海

 そして気の遠くなるような歳月、鏡のように穏やかな海をただ真っ直ぐに見据えてきた鳥居の存在こそが、雷大臣命(イカツノオミノミコト)とその子、日本大臣(ヤマトオミノミコト)が海からこの浜に上陸したとする伝承が単なる作り話ではないことを、われわれに語っているように思えてならなかった。

一之鳥居から海の参道 

一之鳥居

 当社の由緒には、神功皇后の新羅征伐の凱旋の際、随行した雷大臣命がこの浜久須の浜に上陸し、阿曇磯良が5kmほど南東にあたる湾口の五根緒(ゴニョウ)に上陸したとあるが、双方ともに海に面して鳥居が立つ。ただ、海神に連なる(海神豊玉彦命の孫・豊玉姫の子である)磯良が上陸したとされる五根緒の海岸は外海に近く、打ち寄せる波も荒々しく、霹靂の海とは大きく異なっている。

五根緒の対馬海峡に面する塔ノ鼻

 先に見た阿連(アレ)の雷命(ライメイ)神社にも雷大臣命が新羅より帰国の時に、その地に上陸し、亀卜の法を伝えたとの伝承があるが、この浜久須には、亀卜を伝える話は残っていない。

 

 また霹靂神社は、新羅や百済、伽耶系の陶質土器の出土品が多い、海に突き出た朝日山古墳のすぐ脇、その敷地内に神社があると云った方がよい。当社の祭神たる雷大臣命は、新羅を征伐し、百済の女性を妻に娶るなど百済との関係が極めて強い伝承を有す。そこらの入り繰り、つまり新羅や伽耶系の土器も出土した古墳の主との関係をどう捉えたらよいのか、今後、さらに考察を進めねばならぬ点である。

すぐ脇に朝日山古墳

海水に裾を洗わせる朝日山古墳

案内板

 (霹靂神社の概要)

    住所:上対馬町大字浜久須字大石隈1073

    朝日山古墳の脇に在す

    祭神:伊弉諾尊・事解男・速玉男 (大小神社帳)/雷大臣命・日本大臣命・磯武良(明細帳)

    社号:「対州神社誌」に豊崎郷浜久須村の「熊野三所権現」とある。その(注)の「大帳」に「古くは霹靂と号(名づ)く」とある。また、「明細帳」に「霹靂神社」とある。

    由緒

「大帳」に、「神功皇后御時雷大臣命使於百済國便娶彼土女、産生一男名日本大臣也。里人傳云上古自新羅御渡之時大明神は五根緒(ゴニョウ)村浦口(上対馬町・旧琴村)に御上り、此権現は浜久須村に御船を被着御上り給と云。雷大臣也。今號熊野三所権現。」とあり、中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)が浜久須村に上陸した故事を伝える。

さらに、「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」とある。

 

 拝殿は神社というより村の集会所のような建屋であり、雷大臣の伝承を考えると、拍子抜けする造作ではあった。

拍子抜けの簡素な拝殿

 その拝殿の裏のガラス戸を開けると、急勾配の石段が見える。本殿は、それを昇った高処に鎮座している。小さな本殿ではあるが、その様はまるで湾奥から海上を睥睨するかのようにも見えた。

裏手の急勾配の石段を昇ると本殿が
 
湾奥を睥睨する本殿

 また、境内の奥の方に、社号が「熊野三所権現」であった時代の鳥居の扁額が無造作に立て掛けられていたのも印象的であった。

熊野権現の扁額

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

 

 太祝詞(フトノリト)神社は、雷命神社と異なり海から2km余内陸に入り込んだ山間(ヤマアイ)に、大きな樹々に囲まれて静謐の時を刻んでいる。かつて「加志大明神」と呼ばれていたことを表わし、一之鳥居の扁額は、「賀志大明神」とある。

 


加志浦
太祝詞神社より2kmほどの加志浦



 
樹々に囲まれる太祝詞神社

 


賀志大明神の鳥居扁額
 
賀志大明神の扁額

 


 
一之鳥居から

 

当社の一之鳥居前と拝殿向かって左側に小さな川筋が認められる。現在、そこに清流はなく、石ころだらけの川底をさらすだけであったが、加志岳や大山壇山に雨が降った時などは、おそらく清冽な流れを見せるのだろう。

 

神社前の川底をみせる小川
 
神社前の川底を見せる小川

 

境内を流れる細い流れ
 
境内を通る細い流れ

 

実際に、鬱蒼と樹木の茂る境内でじっと耳を澄ますと、せせらぎの音がかすかに聴こえてくるようで、上古、この地において神聖なる亀卜の法が行なわれていた情景が目蓋の内にまざまざと浮かび上がってきた。

 


 
参道も古木に囲まれる

 


 
境内は緑色の光に染められる

 



 
鳥居越しに見る拝殿

 

そして、占い神事の本家とも云うべき太祝詞神社が、以下に述べるように、畿内の都に存在する、或いは存在した延喜式内社の太詔戸神社の本社であることが、この対馬が上古、特別の意味を持つ土地であったことを示していると云える。

 

 

昼なお暗い森中に立つ鳥居


 境内を仕切る素朴な石垣

境内を仕切る荒削りの石垣

 

延喜式神明帳に「宮中・京中」に「宮中神36座、京中神3座」と分類される神々がいる。その「京中神3座」のなかに、現在は京中にその痕跡を止めぬ神社であるが、京二条坐卜神二座」という記載が残されている。その二座とは洛中に「卜庭(サニハ)神」つまり、卜(ウラナイ)の神として祀られていた太詔戸(フトノリト)命と久慈真智(クシマチ)命(注1)であるが、そのことは、「日本三代実録」の貞観元年(859)正月27日甲申条から分別される。

 

即ち、京畿七道諸神進階及新叙。(中略)左京職従五位上太祝詞神久慈真智神並正五位下。」と叙勲において、京中に二柱の名前が見られることから、そうした神社が存在したことは事実である。(因みに、当社は承和10919日に従五位下、貞観1235日に正五位上へと昇格しており、年代のズレはあるが、勸請先より上位の官位を得ている)。

 

そして、延喜式の太詔戸命神の注釈には、「本社 大和國添上郡 對島國下縣郡 太祝詞神社」と記されているのである。久慈真智神の注釈は、「本社 坐大和國十市郡天香山坐櫛眞命」とある。

 

そのことから、大和国添上郡の太祝詞神社は、現在の天理市の森神社(祭神:天児屋根命)が比定されるが、天平神護元年(765)に対馬の当社から大和国添上郡にまず勸請され、平安遷都に併せて、さらに左京二條へと勸請されたと考えられる。そして現存するのが、本家たる当社と大和の森神社の二社ということになる。

 


 
樹間に見える拝殿

 

(注1)

藤仲郷の説では「宇麻志麻治命は久慈真智(クシマチ)命にして、太詔戸(フトノリト)と共に卜庭(サニハ)神であり、この二坐を併せて太詔戸神ということもある」としている。また、京中2座の注釈にある久慈真智(クシマチ)命の本社とされる天香山神社には、久慈真智命が深くうらないにかかわり、対島の卜部の神であったとの話も伝わる。

 

 つまり、「占い神事の宗家・元祖」である天児屋根命を祀る源流が対馬の太祝詞神社にあるという事実はもっと注目されるべきであり、わが国神道の系譜のなかで「対馬神道」が、本来、重要な位置を占めるべきことを意味しているはずである。

 


拝殿
拝殿

 

本殿

 


太祝詞神社の素朴な扁額
太祝詞神社の素朴な扁額

 

 

(太祝詞神社の概略)

    住所:美津島町加志

    社号: 加志大明神(古くは大祝詞神社と号す)(大小神社帳)

    祭神:大詔戸(フトノリド)命・久慈麻知命(大小神社帳)/大詔戸命・雷大臣命(大帳)/大詔戸神(明細帳)

    由緒(明細帳)

神功皇后が新羅を征し玉ふ時、雷大臣命は卜術が優れて長(タ)けたるにより御軍に従へり。新羅が降属して凱還の後、津島縣主たり、韓邦の入貢を掌(ツカサ)どる。対馬下県郡阿連村に居り、祝官をして祭祀の禮(レイ)を教へ、太占亀卜の術を傳ふ。後に加志村に移る。今、大詔詞社に合祭す。

 

以上のように、当社は延喜式神名帳のなかで、最高の格である名神大社に列せられている。そのことは、当社が「占い神事の宗家・元祖」である太祝詞神(天児屋根の別名)を祀る神社の本社であったことの証であり、ここで、古代神道の亀卜が行われていたことを証するものである。

 

なお、拝殿に向かって右脇には、雷大臣命の墓との伝承の残る宝篋印塔(ホウキョウイントウ)が立つ。阿連から加志に移り住み、ここで亀卜の法を行なったとの言い伝えから、この地で雷大臣命が終焉の時を迎えたと考えてもおかしくない。おそらく雷大臣命の遺名を偲び邑人たちが、慰霊の石塔を建てたのだろう。

 


 
雷大臣命の墓と伝わる宝篋印塔

 

本殿を背景にひっそり立つ雷大臣命の墓
 
本殿を背景にひっそり立つ雷大臣命の墓


雷大臣命に寄り添うように蘇鉄の樹が
 
雷大臣命に寄り添うように蘇鉄の樹が

蘇鉄は室町時代の頃に貴人の証として庭に植えるのが流行した

 

また、当社の宮司も雷命神社と同じ橘氏であるが、同氏はもと加志氏と名乗っていた。「対馬の神道」に橘氏についての註(P134)が、「阿連のミヤジ即ち神官たる橘氏は雷大臣の子孫と称し、雷大臣の家跡と伝えるミヤジ(宮司)壇なる神地は、代々橘氏の所有にかかる土地であった。橘氏もとは加志氏であったと伝えられる」と、ある。

 但し、神紋は雷命神社の「丸に橘」ではなく、対馬藩主宗氏の家紋である「桐」を使用した「五七の桐」となっている。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)
 

雷命(ライメイ)神社は阿連川沿いに面した小さい丘の上にある。古くは「イカツオミ神社」、その後、明治までは「八龍大明神」と呼ばれていた。

 



 
阿連川に流れる水、川沿いに鳥居

 

 

八龍大明神の鳥居扁額
 
鳥居に掲げられる八龍大明神の扁額

 

対馬卜占に関して、伴信友はその著書「正卜考」(1858)の中で、「対馬国卜部亀卜次第」の著者、藤斎延(ナリノブ=斎長の父)がそれ以前にまとめたと云われる「対馬亀卜伝」を引き、「卜部年中所卜之亀甲を制作して、正月雷命社に参詣して、其神を祭る。雷神を祭る故は、対馬に亀卜を伝る事は 神功皇后新羅征伐之時に、雷命対馬国下県佐須郷阿連に坐して伝へ玉ふなり、依之祭之也」とあることに言及。

 

雷命神社の鳥居扁額
 
雷命神社の扁額

 

「対馬亀卜法」の伝道者が雷大臣命(中臣烏賊津使主)であり、その発祥地が「阿連(旧号・阿惠)」であることが、ここに語られている。

 


阿連の海 

 

 

雷命神社の入口前には鳥居が連なるが、一之鳥居の手前50mほどに、伝教大師入唐帰国着船之地という碑が立っている。

 


 
最澄着船の石碑

 

「対馬歴史年表」(対馬観光物産協会HP)に、「805年 第16次遣唐使に同行した最澄が対馬の阿連(あれ)に帰着。行きの船は、4船中最澄の乗った船以外はすべて難破、帰りの船も流されて対馬に漂着した。当時、玄界灘を渡るのは命懸けだった」とある。

 


 
境内へと鳥居が列ぶ

 

現在、当社は阿連の海まで500mほどの距離を隔てるが、この碑の存在が、当時、この地点が湊であったことを示し、雷命神社の一之鳥居も海辺乃至は水際に面し、立っていたことは確かと云える。

 


 
陽光に反射する阿連の海

 

 当日は、豆酘から久根田舎、小茂田浜を抜けて、阿連に入った。小茂田から山懐へ入り、曲がりくねった道が続いたが、最後の峠を越えると、突然、視界が開けて、阿連の海が目に飛び込んで来た。晴天に恵まれたこともあり、太陽の光に反射する海原は、まばゆく、神々しく、美しかった。

 


階段下の境内



階段の上に拝殿が

 

(雷命神社の概要)

    住所:厳原町阿連字久奈215

    祭神:対馬県主雷大臣命

    由緒(大帳)

県主雷大臣命の住せ玉ふ所也。又云八龍殿とは今云八神殿の事也。・・・載延喜式神名帳雷神是也。後�畍祭于與良郷加志村大祝詞神社之同殿。

(境内社の)若宮神社の祭神は日本大臣命(ヤマトオミノミコト)也。古くは阿惠乃御子神社。

・・・神下云、大八龍〔中臣烏賊津使主〕小八龍〔日本大臣命〕。亀卜傳云、昔神功皇后御時使于(ユク)三韓皈(カヘ)津島、留阿恵村傳亀卜於神人也。続日本紀云天応元年〔781年〕七月右京人正六位上柴原勝子公言、子公等之先祖伊賀都臣、是中臣遠祖天御中主命(注1:アメノミナカヌシノカミ)二十世之孫意美佐夜麻(オミサヤマ)之子也。伊賀都臣、神功皇后御世使百済便娶彼土女、産一男名日本大臣。遥尋本系、皈於聖朝時賜美濃國不破郡柴原地、以居焉。厥後(ソノゴ)因居命氏遂(ツヒニ)負柴原勝姓。伏乞蒙賜中臣柴原連。於是子公等男女十八人依請改賜云云。」
 

(注1)

『古事記』において、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神で、その後に顕れた高御産巣日神、神産巣日神と合わせた『造化三神』のひとつ。『紀』においては、『神代上』の『天地開闢と三柱の神』の第四に「次(二番目)に国狭槌尊(クニサツチノミコト)。又曰く、高天原に生(ナ)れる神、名(ナヅ)けて天御中主尊〔造化3神〕と曰す」とある。

 


 
雷命神社



 
拝殿

 
橘の神紋

拝殿に橘の神紋

 


拝殿の奥に本殿

 


境内社の若宮神社
 
境内社の若宮神社(祭神:雷命の男子、日本大臣命(ヤマトオミノミコト))

 

 

「続日本紀」では、中臣烏賊津使主は「生二男。名曰本大臣。小大臣」と、二人の男子を百済の女性との間にもうけたとあるが、「大帳」では「産一男名日本大臣」となっており、その点も異なっている。

 

対馬の伝承では「一男」とあり、その男子は「日本大臣(ヤマトオミノミコト)」となっている。おそらく対馬には、亀卜の法を伝え、対馬県主に任じられた「日本大臣」のことのみが話として残り、「小大臣」は対馬を離れ、美濃国栗原の地を賜り、「栗原」の姓を名乗ったものと考えられる。

 

さらに「大帳」の由緒は、「姓氏録」を引用し、「津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也云云」と記す。その対馬県の始祖たる天児屋根命「紀」【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】に、

 

「・・・且(マタ)天児屋命(アマノコヤネノミコト)は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり。故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ」と、「占い神事の宗家」であると記されている。

 

このことは、中臣烏賊津使主(雷大臣)とその子(日本大臣)が「対馬県主の祖」であると同時に、烏賊津使主が伝えた「対馬の亀卜法」がこの国の「占い神事の宗家」に連なる正統なる本流であることを示している。

 

 

境内より阿連川越しに田園風景

 

そして、対馬神道が雷大臣の伝来に始まると考えた時、雷大臣が、当初、住みついた阿連の地が、「対馬神道のエルサレム」であるとする鈴木棠三(トウゾウ)氏の言葉は、わたしが山間から目にしたキラキラと輝く神々しい阿連の海原と相まって、まさに得心のゆくところである。

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