神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 14 (胡禄御子(コロクミコ)神社)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳(2013.11.23)

(「アマテル」の「テ」は「氏」に下バーの「_」)


●阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)について
「15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)」の「紀」の注1につづく


【仲哀天皇二年7月―8月条 「熊襲征討」】

「阿閉嶋(アヘシマ)」の記述あり。山口県下関市北西の海上にある六連(ムツレ)島の西北の藍島のことか。(紀第一巻P407の注13)


【神功皇后(摂政前紀仲哀天皇9年4月―9月条) 「神助により新羅親征」】

「是(ココ)に吾瓮海人(アヘノアマ)烏摩呂(オマロ)をして、西海(ニシノミチ)に出でて国有りやと察(ミ)しめたまふ。還りて曰(マヲ)さく、『国見えず』とまをす。又、磯鹿海人(シカノアマ)名草(ナグサ)を遣わして覩(ミ)しめたまふに、数日(ヒカズヘ)て還りて曰さく、『西北に山有り。帯雲(クモイ)にして横に�嚀(ワタ)れり。蓋し国有らむか』とまをす。」

がある。

こうした記述を参考にするとしても、新羅との外交交渉を担当する
阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)は、紀の注釈にある伊賀国阿閉郡を本拠とする氏族や下関の阿閉嶋(アヘシマ)出身の人物とするより、当時の新羅征討に関連する人物群や地勢的特性から推定して、対馬の「阿連」、旧名「阿惠(アヘ)」に棲む海人族の一支族とするのが、妥当な解釈のように思える。仲哀天皇9年4月―9月条の磯鹿海人(シカノアマ)も、新羅征討の伝承に深く関わる志賀島のやはり海人である。

ここで、以上の『顕宗紀』に係る「紀の注記」をまとめると、以下の通りである。

    日神(ひのかみ):延喜式神名帳に対馬島下県郡 阿麻テ留(あまてる)神社

    磐余:神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇の名前の中に「磐余」が入っている。「神」は神々しい。「日本」の文字は「公式令」詔書式の規定による修文、このヤマトは奈良県。「磐余」はイハレ、桜井市中西部から橿原市東部にかけての古地名。

    高皇産霊(タカミムスミノミコト):「延喜式」神名に「大和国十市郡目原坐高御魂神社」、対馬島下県郡高御魂神社

    対馬の下県直(シモツアガタノアタイ):「姓氏録」摂津未定雑姓に「津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也」

    祠:高御魂神社の祭祀をさす


(参考)

*高皇産霊

高皇産霊神は忌部氏の祖神であり、阿波や讃岐地方と深い関係があると考えられる。その地域には同様の墳墓形式、すなわち前方後円墳以前の積石塚墳墓が集中している。高句麗系の墳墓様式とされる積石塚墳墓は、対馬や香川の高松市の石清尾山、徳島の吉野川流域、和歌山、長野県といったツングース系渡来人が居住していたといわれる地域に多い。


以上をまとめて整理すると、「顕宗天皇紀」は、天照大神が対馬で顕れ、月読尊が壱岐で顕れたと述べている。そこで云う「日神」並びに「月神」が一般論の日・月信仰のものでないことは、人に憑依した日神・月神双方ともに、「我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)」と、云っていることである。

それはつまり、伊奘諾尊・伊奘冉尊から遡る(「神代7代」の3代目が「
高皇産霊」であり、7代目が「伊奘諾尊・伊奘冉尊」である。「高皇産霊」は「伊奘諾尊・伊奘冉尊」の直系の祖である)という意味で「
我が祖高皇産霊」と云っているわけで、「日神」は別名「天照大神」であることから、対馬が天上界すなわち高天原ということに論理的にはなるということである。

なぜ、大和から遠いしかも離島の対馬で日神が出現し、壱岐で月神が顕れ出たのか。それは、日本書紀が編纂された当時の人々にとって対馬と壱岐という地に日神、月神が顕れても不思議ではない、或る共有化された事実、歴史認識があったと考えるしかないのである。

であれば、「天照る」は「海人(アマ)照る」の方が対馬には相応しいとするのが自然である。つまり、高天原は天界ではなく絶海の只中に浮かぶ島(対馬・壱岐)の上に存在することになる。

天孫降臨族の祖先が、大陸・半島から九州・本州へ渡る際に必ず中継点として足を止める地が「対馬」であった。そして、そこはそもそも先住人たる海人族が支配する土地であった。つまり、山幸彦と豊玉姫の伝説はそのことを伝える物語であったことになる。その王族二人の婚姻こそが天孫族と海人族の融合を示す説話ということになるのである。

結論的に対馬・壱岐は海人族と混血した「新たなる天孫族」の発祥の地・本貫の地ということになる。そしてそうした認識が「紀」の時代の支配者層にはあったと云うのがロマンを求める筆者の見解でもあるのである。

その日神たる天照大神を祀る伊勢神宮の源流が、これから紹介する「阿麻テ留神社」ということになる。「テ」は漢字では「氏」の下辺に「_」の下バーを記した文字。