彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

阿連

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)
 

ここで、対馬神道の中核をなす対馬亀卜について説明をしておこう。

 

長崎県「県の文化財)HPにおいて、 対馬の亀卜(キボク)(無形民俗文化財)は次のように解説されている。

 

「亀卜は亀の甲を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う方法である。対馬豆酘(ツツ)の岩佐家は、亀卜を世襲する家筋で、『亀卜伝義抄』を伝え、今日なお旧暦正月3日の雷神社の祈年祭(トシゴイノマツリ)に奉仕している。対馬の卜部(ウラベ)は、壱岐や伊豆の卜部とともに古代には宮中の祭祀に関与していたものであるが,亀卜習俗の伝承は今日ではここのみとなった。そのため古代の民俗知識を伝える貴重な資料として記録保存を行うため国から選択された。」

 

 その卜部について、「延喜式・巻3」は「臨時祭」の条において、「卜部は三国の卜術に優れた長者を取る(伊豆五人・壱岐五人・対馬十人)」、「神託を得るには、役目に堪えられる人物を任じるべきで、それには、伊豆から五人、壱岐から五人、対馬から十人を登用すべし」との記述があることから、対馬・壱岐・伊豆を「三国卜部」といい、この三国が卜部族の本拠地と云われる。

 

 伴信友の著書「正卜考」(1858が引用した一書に、対馬の卜部が、「其の卜部上古十家あり、其家絶て中古五家あり、今僅に一家存せり」とあり、江戸末期において、亀卜を伝える家がすでに岩佐家のみになったことが記されている。ただ、鈴木棠三氏は、「橘窓茶話」に「今僅存二家」とあり、「明治維新前までは、豆酘の岩佐家、佐護の寺山家が藩のため歳の豊凶を卜する例であった」と述べている。

 



阿連の大野崎沖


阿連の大野崎辺り 

 

 

また対馬亀卜は「津島亀卜伝記」や「対馬国亀卜次第」に詳しいが、その中では「亀を捕る最上の場所は、阿連の『大野崎』とされ、捕獲した亀には酒を飲ませ、八龍神(八龍大明神=雷命神社)の祠に供え、殺亀日に甲羅を剥ぐ」などの古来の亀卜法が具体的に語られている。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅――番外編(対馬のことごと)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

 神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(大吉戸神社と金田城の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)


 北緯34度、東経129度、朝鮮半島より50km、博多より138km離れた海上に、ひとり対馬は険峻の峯を見せている。面積は696平方km(本島)と、日本の島嶼部としては佐渡島(854平方km)、奄美大島(712平方km)に次ぎ、592平方kmの淡路島を超え、3番目に大きい島である。島数は本島のほかに107(内、有人島5)の小島が存在する典型的な溺れ谷の地形を成している。

 


典型的な溺れ谷の島、対馬(上見坂公園より) 

 

H228月末現在の人口は35,635人(対馬市HP)と、ピーク時の69,556人(1960年)から半減しており、急速な過疎化が進んでいる。また、高齢化比率も直近の国勢調査(H17年)においても26.2%と、全国平均の20.1%を大きく超えている。さらに、住民票を移さぬまま島外に仕事を求め転出している人も多く、実際に島内で生活する住民は3万人を切っているとのことであり、その実態は一層その深刻度を増しているとみられる。

 

さて、そうした日本の現代社会を濃縮したような国境の島、対馬であるが、角度を変えて歴史的観点から眺め直して見よう。現在の行政地域において対馬は長崎県に属する「市」という行政単位で把握されるが、古来の律令制下においては、いわゆる「五畿七道」の「西海道11カ国」を構成する「対馬国」という国の位置付けにあった。それは、日本国土より朝鮮半島に近いという地勢的条件から、大陸・半島からの文物流入の道筋として、また、半島国家との軍事抗争における軍事拠点として、「津(湊)の島」が要衝の地として重要な位置づけを占めていたことを示すものでもあった。

 


異国の見える丘展望台より韓国を・・・ 

 

その対馬は半島との濃密な交流の真っ只中で、日本という国が形成されてゆく過程を伝承や習俗という形で今の世に残す語り部のような島である。それはまさに、日本の始まりを物語るDNAが悠久の時の流れのなか「津島」の湊や瀬戸に揺々として繋留されているかのようである。そして、静謐のなかエメラルド色をした鏡のような水面を張る美しい入り江を眺めているうちに、その国家創始というDNAの「鎖の艫綱」が何れの日にか、ロマンあふれる人物の手によりその謎が解明され解き放たれることを、静かに待っているように思えたのである。

 


対馬神道のエルサレム、阿連の海 

 

その謎解きのヒントとなるのだろうか、対馬にはかつてこの国が倭と呼ばれた時代、歴史上、大きな役割を果たし、重要な位置付けを占めていたことを示す伝承や神事が数多く伝えられている。

 

そして、その多くは対馬神道や天道といった信仰を通じ、神社や神籬磐境(ヒモロギイワサカ)、不入の地といった「場」の形式や、亀卜、赤米神事、船ぐろうといった古代習俗の継承保存や土地に伝わる伝承という形で、今の時代まで引き継がれ、語り継がれてきている。

 

それらのことは、これからもおいおい具体的な文献資料や伝承によって述べてゆくことになるが、ここでひとつ端的な例を挙げておく。

 

神社を語る時、「延喜式神名帳」の「式内社」云々という神社の格式を表わす表現をよく目にするが(注1)、その式内社の数が対馬と隣の壱岐において異様に数が多いことである。

 

即ち全国の式内社は2,861社を数えるが、その内西海道11ヶ国(注2)には107社が存在する。そして対馬には29社(名神大社6、小社等23)、壱岐に24社(同6、同18)、筑前国19社(同8、同11)と、この3地域で計72社と、西海道の式内社の2/3を占め、とくに対馬は29社と西海道最多の社数を誇っている。


海神神社一之鳥居

対馬一の宮 海神神社の鳥居


277段の階段を昇って海神神社拝殿に

 

そのことは「神意」を政(マツリゴト)の中枢に置いた「倭」という時代において、対馬の神々を朝廷が神の系統において高い位にあることを認める事情があったことを表わし、当時の対馬の重要性を素直に裏付けるものといってよい。

 

 

   注1:「延喜式」

平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、延喜5年(905)に編纂を開始、22年後の延長5927)年に完成。50巻三千数百条におよぶ条文は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、巻一から巻十が神祇官関係となっている。そのうち巻九・十「延喜式神名帳」と呼ばれるもので、当時の官社を網羅した格付け表である。そして祈年祭奉幣にあずかる神社2861社(天神地祇3132座)を「式内社」と称し、国郡別に整理羅列されている。

 

   注2:「西海道」

五畿七道という律令制時代の行政区画で、「西海道」は、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隈(以上9ヶ国が現在の九州本土)、壱岐、対馬の11の令制国から構成される。対馬、壱岐は現在、長崎県に含まれるが、令制国時代(この呼称単位は明治初期まで残る)には、対馬はひとつの行政単位たる国の位置付けにあった。ちなみに廃藩置県後に、対馬国(藩)は厳原県、伊万里県、三潴県を経て、1876年に長崎県に編入されている。

 

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