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文中3年(1374)、京都の新熊野(いまくまの)神社(東山区今熊野椥ノ森町42)にて観世清次(後の観阿弥)は結崎座を率い”今熊野勧進猿楽”を興行した。
時の将軍足利義満はそこで藤若丸(後の世阿弥)を認め、その美貌と技量を高く評価し、父と共に将軍の同朋衆へと取り立てた。
世阿弥は生来の素質を開花させ、義満の庇護の下で申楽を能へと大成させていった。
しかし、齢とともに将軍も代が変わりその恩寵も薄れてゆくなか、観世流の本流は甥の音阿弥(世阿弥の弟・四朗の子)が仕切り、公職たる楽頭職も同人に移っていった。
世阿弥71歳の時、著作・『却来華』のなかで「(後継者であった嫡男の)元雅早世するによて、当流の道絶えて、一座すでに破滅しぬ」と記すなど、能の表舞台から遠ざけられ、後継者たる嫡男を一年前に失い前途を悲観していたことがうかがわれる。
そうした失意のなかにあった永享6年(1434)、罪状は定かではないが72歳という高齢で、第6代将軍義教により佐渡配流の憂き目にあうのである。
さて、世阿弥は佐渡で七編よりなる小謡曲舞(こうたいくせまい)集・“金島(きんとう)書” を著している。それに拠って世阿弥所縁の地を訪ねてみることにしよう。
第二編の『海路』に、「下(しも)の弓張りの月もはや、曙の波に松見えて、早くぞ爰
(ここ)に岸影の、爰はと問えば佐渡の海、大田(おほだ)の浦に着きにけり」とあるように、世阿弥は日蓮が上陸した松ヶ崎に隣接する多田の地に配流の一歩を刻んでいる。
「(佐渡に着いた)その夜は大田の浦に留まり、海人の庵の磯枕して、明くれば山路を分け登りて、笠かりという峠に着きて駒を休めたり」とあり、「そのまま山路を降り下れば、長谷と申て観音の霊地わたらせ給。故郷にても聞きし名仏にてわたらせ給えば、ねんごろに礼拝」している。
配流一日目は多田の浦で一泊、翌日、笠借峠(現在の笠取峠・誤記との説も)を越える。そして、長谷(ちょうこく)寺に立ち寄っている。
そこで今では33年に一回開帳される秘仏のご本尊、十一面観音立像三体を世阿弥は礼拝したと記している。
長谷寺の急な石段を登り切った処に観音堂が建つ。
そして本堂は石段半ばに位置している。
当時、世阿弥がどちらに礼拝したかはもちろん詳細は分らぬが、説明板は観音堂の前にあった。
長谷寺に立ち寄ったあと、「その夜は雑太(さうた)の郡、新保(しんぽ)と云ところに着きぬ。国の守の代官受け取りて、万福寺と申す少院に宿せたり」とその行程を述べている。
いまの佐渡市役所の西に隣接する万福寺跡が最初の配処ということになる。わたしが立つこの地をあの能聖・世阿弥も同じように踏みしめたのかと思うと、”跡”という語感もしみじみと耳に響いてきて趣きがある。
ここが、世阿弥の最初の配処である。
現在、万福寺は廃寺となっており、往時をしのぶよすがはそこに建つ石碑のみである。
第四編の『泉』に、「泉と申す所なり。これはいにしえ順徳院(順徳天皇)の御配所なり。・・・鄙(ひな)の長路(ながじ)の御住居、思いやられて傷(いた)はしや。所は萱が軒端の草、忍ぶの簾絶々(たえだえ)なり」とある。
世阿弥は次の第五編で述べているが万福寺より泉という地に移された。その泉の配処・正法(しょうぼう)寺から北へほんの400mほど歩いたところに順徳天皇(承久の変で配流)の仮御所・黒木御所跡がある。
世阿弥は徒然なるままに近くの黒木御所跡をたびたび訪れていたのであろう。
そして22年間の流刑の末、この地で果てた順徳天皇が荼毘に付された真野山・火葬塚(真野御陵)にも世阿弥は足を運んだに違いない。
そこには天皇が失意のなかたびたび散策されたという御陵参道の先に小暗がりの石道があるからである。
おそらくこの石道を世阿弥は順徳天皇に心を寄せながらひとり歩いたことだろう。
今では“順徳天皇遺愛の石道”と刻まれた石柱が道端にぽつんと建つのみである。
人影のまったく見えぬひっそりとした世の中から取り残されたようなさびしい小道である。
第五編『十社』に、「かくて国に戦起こりて国中穏やかならず、配所も合戦の巷になりしかば、在所を変えて今の泉という所に宿す。さる程に秋去り冬暮れて、永享7年(1435)の春にもなりぬ」とあり、戦によって新穂の万福寺から逃れ、泉の正法寺へと配流先が変わったことを述べている。
そして、この正法寺にて、「ここ当国十社の神まします。敬神のために一曲を法楽す」とあり、能を奉納したことが記されている。
これが佐渡で世阿弥が能を舞ったといわれる唯一の記録である。
であれば、正法寺に伝わる世阿弥の“雨乞いの面”を被り、世阿弥がこの本堂で能を舞ったということも十分、考えられるのである。
後日、分かったのだが、事前に正法寺に電話でお願いしておけば、住職自ら、雨乞いの面を見せていただけるということで、残念至極、無念やるかたないところである。
境内には、世阿弥が腰掛けたと伝わる“腰掛石”も史蹟として残されている。
能に興味のあられる方は、是非とも訪れる価値のある正法寺である。
正法寺は記録で確認される限り世阿弥が最後に能を舞った処である。まさに能のパワースポットともいえる場所である。
そして、嫡男元雅亡き後、後継者と定めた女婿・金春禅竹に宛てた書状、永享7年(1435)6月8日付の “佐渡状”を最後に、世阿弥の足跡は張りつめた絹糸を断ち切ったように見事なまでに絶たれ、その行方、没年も杳(よう)として知れないのである。
一説によれば、嘉吉3年(1443)、世阿弥は81歳で他界したという。
その歿地も佐渡であったのか赦免されてどこか他国にて死去したのか、宿敵義教暗殺が観能の最中だったという宿怨、まさに怨霊を演ずる夢幻能のごとく世阿弥はその現身を霧の中にかき消すようにして己の生涯の幕を閉じたのである。
能を能たらしめた夢幻能を世阿弥自身が存在を晦ますことによって昇華させたとしか云えぬ不思議な夢現の生涯であったように思えてならない。