彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

赤ちゃんポスト

赤ちゃんポスト認可に二つのゲス!3

昨年119日に熊本市の慈恵病院(蓮田晶一院長)が「赤ちゃんポスト」の設置計画を公表してから4ヶ月を経て「赤ちゃんポスト」は国を巻き込んでの賛否両論のなかでとうとう同市から認可が下りた。

わたしはブログ「赤ちゃんポストは捨て子を慫慂(しょうよう)する」061116日付け)で、「赤ちゃんポストは善意と愛情だけでは、かえって『捨て子』を慫慂(しょうよう)する可能性が極めて高い。捨てられた赤ちゃんを将来育て、養育していく機関、親代わりの人たちの継続的受け皿がしっかり用意されていない限り、この仕組みというより仕掛けは早晩、失敗に帰する」とし、その理由として赤ちゃんポストを設置するドイツ等と異なり宗教的バックボーンのない「社会規範が壊れた(日本の)社会にこうした善意は、かえって不幸の種を撒き散らし、悲しいことだが混乱を増すだけ」だからであると述べた。

その考えは当然だが今でも変わっていないし、認可が下りたことから今後の懸念は現実のものとして大きくなるばかりである。

「現行法では違法とは言い切れない」とする厚労省の柳沢伯夫大臣も「赤ちゃんを遺棄したり、それが是認されるということは絶対にない」と強調する一方で、施設設置は「違法ではない」と発現するなど、何とも歯切れの悪い政府の対応となっている。

安倍晋三首相が抱く「(親が)匿名で赤ちゃんを置き去りにしていくことは、私は許されないのではないかと思う」「政府としては一般的にそうしたことを認めるということはない」との不快感が、政府の歯切れの悪さに反映しているように思える。この問題は見方を変えれば、「人道的という理想」に対し、現実問題を解決する「政治」がどのように機能したか、するべきであったかのリトマス試験紙のようなものでもあった。

その試験の答えは、以上のような「国は違法とは言えぬが、一般的に認めるということはない」が、「熊本市は設置の認可」を下ろすという政治が「人道的という理想」に股裂きにあってしまったというところであろうか。善意が身近に見えるところほど理想というエモーションに政治が引っ張られてしまう傾向があるということなのかも知れない。

そして政治の結論が出されたこれから、懸念される二つの「ゲス」が存在する。

ひとつは、ポストに置き去りにされた赤ちゃんが病院を出た後のフォロー体制が十分整備されているか否かという点である。置き去られた赤ちゃんが里親や特別養子縁組といった形で引き取りがなされない場合、その赤ちゃんは乳児院と呼ばれる施設に移されることになる。慈恵病院で保護している期間は短い。そうした間に里親等の解決策が簡単に見つかるとは考えづらく、まずは乳児院への移動ということが最も可能性の高いケースとなる。

そのケースで「赤ちゃんポスト」の先行きを見ると、赤ちゃんポストを作ったからといって将来の乳児の幸せを考えれば、乳児院と児童養護施設の受け入れ態勢が万端整っていることが、今回の「人道的善意」を実効あらしめるための必要条件ということになる。

そこで熊本県の施設の概要を見ると、熊本市内に2つ、八代市内に1つの計3つの乳児院が存在する。その受け入れ定員の合計は60名であるが、現在の利用状況はほぼ満杯の状況であり、今後の受け入れ余力はないとのことである。また乳児院ののちに移る施設として2才以上の児童を預かる児童養護施設は同県には12箇所存在している。

平成16年に児童虐待等の問題に適切に対処するために児童福祉法の一部が改正され、乳児院及び児童養護施設の入所児童に関する年齢要件の見直しが行われている(乳児院はh10年まで2才未満、それ以降は3才くらいまでの赤ちゃんを預かってきた)。h16の改正内容は「安定した生活環境の確保等の理由により特に必要がある場合には、乳児院に幼児を、児童養護施設に乳児を入所させることができるものとする。(第37条及び第41条関係)」とされ、言ってみれば児童相談所の判断で適宜、年齢に縛られず乳児院、児童養護施設の相互乗り入れが可能となった。

その結果、実は、同県の乳児院は従来一割程度の定員空きがあったものが、この2年ほどでほぼ満杯という状態になっている(3才児以上の幼児も乳児院に入所)。言い換えれば、一番手のかかる乳飲み子を預かる乳児院の負担は最近、重くなっているといってもよい。

そうした状況のなかで今回の「赤ちゃんポスト」の設置認可である。

今回の赤ちゃんポスト認可は匿名を可能とした。利用者は何も熊本県民とは限らない、場合によっては全国から利用者が集まる可能性も考慮しておかなければならぬ。今後、ポスト利用者が増えた場合の対策として、乳児院の収容能力の拡充が必要であることは明らかである。熊本市は施設拡充の予算措置を講じる手当てを県とも検討したうえで認可を下ろしたのかという懸念がある。そして予算措置が用意されているとしても二十四時間勤務(3交替)という厳しい労働条件の乳児院職員の確保は現在でも大きな課題となっており、スムースな人的手当ての可否が考慮されたかも懸念されるところである。

さらに今後、問題となってくると思われるのが、乳児院等の増設等バックアップ体制の整備費用、将来の養育費等は、その半分を自治体が負担することになっていることである(あとの半分は国)。他の自治体の赤ちゃんの養育費用まで含めて熊本県が負担するということを県民や議会が十分理解し、私立病院の「人道的」という「理想」に理解を示しているのだろうか。財政面においても将来、熊本県民が負担し続けることになるのだということを果たして県民・議会がどれほど了解しているのだろうか、実は心配でならない。

無心の善意を否定する気は決してない。ただ財政基盤と人材確保といった現実的な政治の判断とチェックがしっかりしていなければ、入口の「善意」という気持ちだけでは、こうした問題の解決はまさに入口だけの解決に終わり、根本的な解決にはほど遠い状況となり、またそれ以上に問題を複雑化させることになることを憂慮しているのである。

つまり現実的な手立てが一気通貫で整備されていなければ、入口で目立つ「善意」のしわ寄せが、後方の何十倍もの時間を要するバックアップに携わる人々や一般の市民に負担が降りかかってくることになるのである。バックアップが疲弊、混乱すれば、その善意の持続も長続きしないことは必定である。

そして赤ちゃんポストの設置という「善意」が、結果として捨て子の安易な慫慂(しょうよう)だけに終わってしまうことを強く懸念してしまうのである。

本来こうした国民の基本的なセーフティーネットの問題は、そもそも国がどういう意思を有し、どう対処するのかを問うべきであって、「現行法では違法とは言い切れない」といった歯切れの悪い政策意思?の語りだけでは、今後の現実的な「金」にまつわる話は、とても期待はできぬと熊本県民は思っておかねばなるまい。

今後発生してくるであろう諸問題について熊本市なり県は十分、国と突合せを行なったのであろうか。赤ちゃんがあふれてしまって、適切なお世話が出来ぬでは話にならぬ。しかし、今回の「赤ちゃんポスト」認可の話しにはそうした事態もGuess(ゲス)されるのである。

二つ目の懸念とはこれだけ赤ちゃんポストが世間で注目されると、いつこのポストの利用者が現れるかという下衆(ゲス)な好奇心が生まれてくることである。まかり間違ってもポスト利用者を待ち伏せするようなメディアが出現してはならぬし、利用者が出てきたとしてもその赤ちゃんの将来のプライバシーを守るうえで、「ポストに赤ちゃんが置かれました」などという下衆な報道は控えるべきである。

そのわけはマスメディアの大好きな「報道の自由」という言葉よりも、憲法13条にいう「すべて国民は、個人として尊重される」赤ちゃんのプライバシー保護という「基本的人権」の方が数段勝ると考えるからである。このことはメディアの良識?に期待するしかないし、こうしたことに国民は「良質の無関心」で応じなければならない。

いずれにせよ赤ちゃんポストを利用する必要はなかったというのが一番幸せなことであることは言うまでもなく、これまで述べた「Guess」がまさにわたしの「下衆」の勘繰りで終わることが最も幸せであることは論を俟たない。


 

赤ちゃんポストは捨て子を慫慂2

赤ちゃんポストは捨て子を慫慂(しょうよう)

 

 熊本市の慈恵病院(蓮田昌一院長)が子育ての不可能な親が赤ちゃんを捨てるポストを病院に創設することを公表した。病院の外壁に穴を開け、そこから内側に設置した保育器に入れるのだという。捨てられるのが犬や猫であれば話はわかる。しかし、対象となるのは人間である。蓮田太二医療法人聖粒会理事長は「捨て子を見て見ぬふりをして『死なせてもいい』という論理が通るか。子供に罪はない」と言う。

正論であり、その高邁な精神には素直に頭が下がる。ネットで当病院のホームページを閲覧すると、生まれ来る小さな命に対するまさにホスピタリティーの精神に溢れた暖かい愛情が画面越しに伝わってくる。今を去ること108年前にジョン・マリー・コール神父と5人のマリアの宣教者フランシスコ修道女により開設された沿革を持つこの由緒ある病院は本当に暖かい医療を心がけている医療法人なのだと思う。

 しかし、赤ちゃんポストは善意と愛情だけでは、かえって「捨て子」を慫慂(しょうよう)する可能性が極めて高い。捨てられた赤ちゃんを将来育て、養育していく機関、親代わりの人たちの継続的受け皿がしっかり用意されていない限り、この仕組みというより仕掛けは早晩、失敗に帰することになろう。

 ドイツでこの赤ちゃんポストが70例設置されているという。キリスト教という宗教的バックボーンがある国と無宗教で社会規範の荒廃が指摘されている国とでは、「子育てが不可能」の認識がおそらく根本から異なるのではなかろうか。最近の親が子を殺し、子が親を平気で殺害するこの国で、心血を注ぎ身を削るほどに子に愛情を注ぎ、そのうえでも愛する子を捨てざるを得ない人々が、一体どれほど存在するのだろうか。それほどの人間はわが子を捨てる選択の前に、別の方策を探し出す能力を有しているように思われる。

 

 現実は、この善意のポストを知ってこれ幸いと、産み落とした赤ちゃんをポイ捨てする人間が増えるのが、残念であるが今日のこの国の実態ではなかろうか。社会規範が壊れた社会にこうした善意は、かえって不幸の種を撒き散らし、悲しいことだが混乱を増すだけのように思えてならない。

 

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