彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

豊玉姫

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)


 その豊玉姫が上陸し、山幸彦が産屋を造って待っていた浜こそが、この鴨居瀬であったという。さらに村名の由来が「
鴨著(ツ)く島」つまり「鴨の居る瀬戸」という、「紀」・「記」にある山幸彦の御歌にあることを、江戸の天明年間178189編纂の「対馬州神社大帳」が伝えている。

 

 

つまり、大和王朝ならびに天皇家の始まりに深くかかわる地がこの鴨居瀬ということになる。なんとも、ロマンを掻き立てる伝承である。それも此の浜や他の対馬にあった習俗を考えると、単なる作り話として退けてしまうのも、いささか乱暴の気味であると云わざるを得ないのである。

 


 
大正8年頃の住吉神社(拝殿内の絵馬)

 

即ち、かつてこの「神社の周囲の浦が『産ノ浦』と呼ばれ、ここに臨時の産屋を建てて女性は出産する」という驚くべき習俗が残っていたというのである。

 

しかも同種の出産習俗(原上り)が、豊玉姫を主祭神とする「海神神社」のある木坂にも残っていたという事実こそが、この国の創世期において、海神を祀る海人族と天皇家の祖たる天孫降臨族とは強くて深い関係があったことを物語っていると云える。

 

原上り(ハルアガリ)」については、『対馬紀事』(文化6年(1809))に、「当邑(木坂村) 産に臨んで 俄(ニハカ)に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云。之を原上り(ハルアガリ)と曰ふ。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風也」とあり、さらに驚くべきことは、その特異な習俗が明治中頃まで残っていたことである

 

対馬の住吉神社と海神神社が海人族の祖神を祀り、出産と云う人間の営みのなかでも崇高でしかも危険な営みに係る難儀な習俗が永年にわたり続いてきたことこそが、海幸・山幸彦神話が単なる説話ではないことを確信させるのである。

 

 

日本海海戦(明治38年)戦捷記念行事の「船ぐろう」優勝時の艫櫓(トモロ)

対馬竹敷の海軍要港主催(明治42527日)

 


 
説明書きには「船ごろう」とあり、鴨居瀬ではそう呼ぶのだろうか

鴨居瀬の和船(乗員87名・櫓33丁)が対馬全島内で優勝

 

代々の女性が浜辺に建てた臨時の産屋で出産する、それも鴨居瀬だけにとどまらず、対馬の東(鴨居瀬)と西(木坂)に同様の特異な風習が残っていることも、その言い伝えが単なる昔話ではなく、対馬の人々にとっては、古来、誇りと為す歴史的事実があったからこそとの思いを強くするのである。

 


 
万延元年の石灯篭

 

加えて、「紀」の「海幸・山幸説話」には、山幸彦の死を「彦火火出見尊崩(カムアガ)りましぬ。日向(ヒムカ)の高屋山上陵(タカヤノヤマノヘノミササギ)に葬りまつる。」とある。

さらに「神日本磐余彦尊(神武天皇)ら四男神の誕生」に、「久しくして彦波瀲武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウカヤフキアエズノミコト)、西洲(ニシノクニ)の宮に崩りましぬ。因りて日向の吾平(アノヒラノ)山上陵に葬りまつる。」とある。

 

即ち、海人族に深く関わった天孫降臨族の二人共が「西洲の宮」で亡くなったと推測され、対馬がその強力な候補地とするのは、仁位の龍宮伝説や鴨居瀬の鵜茅不合葺尊の出生伝承を併せ考えると、逆に自然なことなのである。

 

歴史書が語っていることと、「事実」の意味合いを再度、考え直してみる必要性があるのではないか、それだけの重みを記述の中に読み取り、感じ取る鋭敏で豊かな感性が殊に必要であるのではないかと感じたのである。

 

この住吉神社が面する浦は、別名、「紫瀬戸」とも呼ばれる。豊玉姫が出産した後産の胎盤などをこの地で洗ったために、藻が紫になったとの伝承が残る。当日は盛夏ということで藻の繁茂する季節ではなく、紫の藻を見ることはなかったが、透き通った海は、太陽の日差しに映えて、オモテを群青色に染めていた。

 


 
鳥居真下の階段は海の中へ

 

 

水が透明な鴨居瀬の海

 

 

 続いて、鴨居瀬のちょっと先に在る赤島を訪ねた。ここも豊玉姫がこの浜で出産したと云い伝えの残る浜である。

 

 

赤島大橋

 

 

赤島大橋より外海を

 


 
赤島大橋より入江奥側を

 

赤島大橋から見る海は夏の太陽の日差しを反射し、群青色の世界を眼下に展開して見せた。

 


 
エメラルドグリーンの海

 

 

対馬で最も海がきれいだと云われる赤島




 
海の深浅と日差しで海面も色を変える
 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 

 

 鳥居が水際に立つ鴨居瀬の住吉神社

 



 
赤島の鮮やかな群青色の海

 

 海幸・山幸物語の龍宮城(和多都美神社)を訪ねた後は、山幸彦(神武天皇の祖父)が帰って行った上国(ウハツクニ)ゆかりの海浜にある神社を訪ねることにする。鴨居瀬(カモイセ)の住吉神社である。鳥居が海に直接、面し、参道が海路となる形態は、先に見た仁位の和多都美神社をはじめ、浜久須の霹靂(ヘキレキ)神社、五根緒の曽祢崎(ソネザキ)神社など対馬に多く存在する。古くからの海の民の信仰を色濃く残している対馬ならではの特異な神社様式である。

 


境内の由緒説明


 

住吉神社拝殿

 


 
拝殿内部

 

 

拝殿より鳥居越しに鴨居瀬の入江を

 

鴨居瀬の住吉神社(美津島町鴨居瀬174)

    祭神:彦波●武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケウガヤケフキアエズノミコト)(大帳・明細帳)三筒男命(住吉三神)(大小)

    社号:瀬戸紫住吉大明神/鴨瀬(カモゼノ)住吉神社(大小)/和多女御子神社(明細帳)

    「対馬州神社大帳178189年編纂)」は、その由緒に「鴨居瀬」の由来を説いている。即ち、「鴨居瀬村、一に鬘(カズラ)浦村という。一説に波●武尊(ナギサタケノミコト)を養ひ奉(タテマツリ)し處ゆえに、彦火火出見尊(山幸彦)の御歌に、「沖つ鳥 鴨著(ツ)く島に 我が率寝(イネ)し 妹(イモ)は忘らじ 世の尽(コトゴト)も」、是を以て今村の號として末世に傳ふと云う。」とあり、鴨居瀬の名が山幸彦の御歌に由来するとの説が、江戸の天明年間にあったことを伝えている。

また、「明細帳」は、「豊玉姫命の皇子を抱育し玉ひし古跡なり。」と記している。

    境内の案内には、

「本社ノ創建ハ橿原ノ朝ニシテ彦波●武鵜茅不合葺尊斎キ祀リテ津口和多女御子神社ト云ヒ彦火火出見命津島海宮ニ降ラセ給ヒ豊玉彦命ノ姫豊玉姫ヲ娶リ、海宮ニ住ヒ給ヒシコト、三年豊玉姫胎妊ノ身トナリ産室ヲ此ノ地柴瀬戸神浦ニ造ラシメ給ヒテ皇子彦波●武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズノミコト)ノ御誕生御抱育シ玉ヒシ古跡ナリ神功皇后三韓御征伐ノ時、海神ヲ斎キ祀リ玉ヒシヨリ住吉神社ト云ヒシナリ。」とある。

 


 
拝殿内に飾られた神功皇后三韓征伐の絵馬(大正13年奉納)

 

さて、此の浜にかかわる神話の世界に戻ろう。

豊玉姫が山幸彦との間にできた子を出産するため海亀に乗ってやって来るシーンを「紀」は次のように記している。

 

【紀:神代下[第十段]一書第三 海幸・山幸説話と●●草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の誕生

「『妾已(アレスデ)に有娠(ハラ)めり。天孫(アメミマ)の胤(ミコ)、豈(アニ)海中(ワタナカ)にして産みまつるべけむや。故(カレ)、産まむ時に、必ず君の処(ミモト)に就(マイ)でむ。如(モ)し我が為に屋を海辺(ウミヘタ)に造りて、相待ちたまはば、是所望(コレネガフトコロ)なり』とまをす。故、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)已(スデ)に郷(クニ)に遷り、即ち鵜(ウ)の羽を以(モ)ちて、葺きて産屋を為(ツク)りたまう。屋の甍未だ合(フ)き及(ア)へぬに、豊玉姫自ら大亀に馭(ノ)り、女弟(イモ)玉依姫を将(ヒキ)ゐ、海を光(テラ)し来到(キタ)る。」

 

水際に立つ鳥居、参道は潮路




この海を光らして大亀に乗り豊玉姫がやって来た(鴨居瀬) 

 

そして、出産時に八尋の和邇に戻っていたことを見られた豊玉姫がそれを恨みながら去ってゆく時に、山幸彦が「沖つ鳥 鴨著(ツ)く島に 我が率寝(ゐね)し 妹(イモ)は忘らじ、世の尽(コトゴト)も」という歌を詠んだと「紀」は記す。

 


 
鳥居より住吉橋を見る

 

豊玉姫と山幸彦の間に産まれた皇子は、『彦波●武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウカヤフキアエズノミコト)』(注1)と名付けられた(注2)。豊玉姫が龍宮城へ戻って後、御子の顔かたちがたいそう端麗であることを伝え聞き、自らが地上に戻り養育したいと思ったが、道理にかなわぬことであったので、代わりに妹の玉依姫(注3)を地上に遣わし、育てさせた。鵜茅不合葺尊(ウガヤフキアエズノミコト)は成長の後、養母であり、叔母にあたる玉依姫を娶り、その間に神武天皇を儲けるのである。

 

(注1)産屋の屋根を鵜の羽で葺き終えぬうちに産まれた子という意味で、鵜茅不合葺尊(ウガヤフキアエズノミコト)と命名。神武天皇の父である

(注2)当時は母方が子供の名づけをするのが風習であった。

(注3)海神豊玉彦命の娘で、豊玉姫の妹。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

 828日、福岡国際空港から対馬海峡を飛び越え、定刻の午後4時に浅茅湾東南奥、本島のほぼ真ん中に位置する対馬空港へ降り立った。これから34日の神々を巡る対馬の旅が始まる。

 


対馬海峡(デジカメで撮影可能な上空から)

対馬海峡に小さく浮かぶ小島が見える(同上) 

 

 空港へ迎えに来てくれた従妹家族の車で対馬グランドホテルへ直行(5分)、まず、チェックイン。従妹夫婦は小学校の教員であるが、長崎県の教職員には原則、4年間の離島赴任が義務づけられている。今年が彼らの対馬における最後の夏になるというので、押しかけた次第である。

 


宿泊先の対馬グランドホテル


日本海を見晴らすテラス

コテージ
ロッジに泊る。この先右手階段を下りると日本海の磯に繋がる


磯辺から日本海に昇る朝陽を(29日早朝)


水平線に朝陽が(同上)


素晴らしい朝焼けの空(同上) 

 

そして、ホテルでの休憩もそこそこにお目当ての和多都美(ワタヅミ)神社へ向かうことにした。予め、当日の干潮が午後430分であることを調べておいた。

 

干潮時でないと和多都美神社の海中に立つ鳥居の傍に歩いて行けない。また、潮溜まりにあるはずの阿曇磯良(アズミノイソラ)の墓との伝承のある磐座(イワクラ)が水没していては堪らないと思ったのだ。

 


和多都美神社


干潮で全貌を見せる磯良恵比寿 

 

 車で約40分。和多都美神社(豊玉町仁位)は、仁位浅茅湾の奥にあった。潮が引いた「真珠の浜」に降りて、早速、歩いた。残念ながら一之鳥居はわずかに足元を潮に濡らしていたが、二之鳥居と一之鳥居の土台がしっかり見えた。

 

 

真珠の浜に下りて、三之鳥居から拝殿を臨む



二之鳥居から一之鳥居を


二之鳥居正面から拝殿方向を

 

 右手の堰堤の突端の辺りが、山幸彦の神話に出てくる潮満瓊(シホミツタマ)・潮涸瓊(シホフルタマ)の宝珠にちなみ「満珠瀬」と呼ばれる場所である。その土手の上に潮満瓊をささげる豊玉姫の銅像が建っていた。


この堰堤の突端の辺りが満珠瀬




 晩夏の夕暮れ、干潮の真珠の浜にはわれわれ以外には人っ子一人いない。ただ、両脇に迫る小高い山から蝉しぐれが降り注ぐのみである。

潮満瓊(シオミツタマ)を奉げる豊玉姫の銅像

 


刻々と潮が満ちてくる浜に静謐の時間が・・・ 

 

 海神、豊玉彦命の宮殿の地を静謐の時間が充たした瞬間である。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2」で、和多都美神社の由緒等詳細を語る。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社) 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 7(梅林寺)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

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