彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

讃岐のパワースポット

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

2 石清尾山13号墳・石清尾山9号墳・石清尾山2号墳・猫塚


9月下旬の秋の好日、悠久のロマン、古代史の謎に触れようと石清尾山古墳群のなかでも代表的な次の図にある9つの古墳を廻った。

石清尾山古墳群マップ(高松市文化財課)
高松市教育委員会作成

不自由な足を庇い、杖をつきながらの山道歩行である。下から登ってゆき、そして、また下って降りるといった踏破行は当初から諦め家内のサジェストにより最も標高の高い石清尾山頂上真下にある峰山公園までまずタクシーで登った。


要は、上の図にあるように峰山の高処にある13号古墳(上記図)から逆順に─↓А↓ΑΑΑΝ,伐爾辰討罎という省エネ踏破を目論んだのである。

石清尾山古墳群分布図(高松市文化財課)
石清尾山古墳群配置図(高松市文化財課作製)

当日は好天の土曜日ということもあり、多様なアスレチック遊具のそろった峰山公園には多くの子供連れの家族が訪れていた。

5・峰山公園
ユニークな遊具の多い峰山公園

われわれはまず瀬戸内海を一望できる展望台へと向かい、これからの難儀な踏破行へむけた英気を養うことにした。晴れ渡った空の下に空と一体となったかのような瀬戸内海が広がり、手前には女木島や小豆島、遠くに目をやると本土が見渡せた。

6・展望台から遠くに岡山県を望む
峰山公園展望台からの眺望・女木島、男木島の向こうに小豆島


【石清尾山13号墳】
最初の石清尾山13号墳は、展望台を少し下った先にある。

7・石清尾山13号墳
石室がなければただの盛土と勘違いする石清尾山13号墳

古墳時代後期の6世紀末から7世紀中頃に築造された径9m、高さ1・5mの盛土墳で、横穴式石室の天井石が取り除かれた状態である。


そこから公園を突っ切り一旦車道へ出て、石仏のならぶ先の細い下り坂へとUターンして入り込む。これでよいのかと不安になるほどに熊笹で覆われた細道である。

8・石清尾山9号墳への細い道

そして、いつしか上り坂となり灌木の隙間から向こう側の峰が見えることで自分たちが峰山の尾根筋に歩いていることに気づく。

9・9号不への稜線の道から摺鉢谷を挟んで向こうの峰を見る


【石清尾山9号墳】

そして、ようやく石清尾山9号墳(図の─砲肪り着く。

10・石清尾山9号墳
石清尾山9号墳・前方墳の先に後円墳の積石塚

石の瓦礫が無造作に放られているような保存状態だが、全長27mの積石塚の前方後円墳である。

石清尾山9号墳・後円墳から前方部を見る
石清尾山9号墳・後円部から前方墳を見る

摺鉢谷を取り巻く稜線上の北東部の突端に位置しており、谷を挟んで真東に向き合っているのが、最後に訪れる北大塚古墳(図の 砲任△襦

64・北大塚古墳から石清尾山9号墳と谷越しに見合う
北大塚古墳から見た9号墳が位置する石清尾山

そうした墓の配置に古代人のどういった意図が隠されているのか、興味は尽きぬところである。


【石清尾山2号墳】

9号墳から2号墳(図のА砲泙任錬隠以ほどの距離である。

11・9号墳から2号墳へ
9号墳から2号墳へ向かう道

峰山公園の芝生広場から行く場合は、自動車道をちょっと上って左に大きく曲がるカーブの右手側に20mほど入った民家の庭先にある。

12・2号墳を真横から
石清尾山2号墳・真横から

横穴式石室が開口している直径約10m、高さは約2mの円墳・盛土墳である。

13・石清尾山2号墳
石清尾山2号墳・羨道から石室を見る

4世紀代の積石塚古墳が集積するこの地区で、6世紀末から7世紀に造営された横穴式古墳群はその総数では積石塚古墳の数を越えているというが、その300百年前にこの地に住みついていた積石塚古墳群を築いた人々との関連はわかっていない。


【猫塚古墳】

この2号墳から徒歩約10数分、幅広の道から右に細道を300mほどゆくと、ここ石清尾山古墳群のなかで最大規模を誇る猫塚古墳(図のΑ砲愿着する。

14・猫塚への細道
この道の先に猫塚古墳はある

その猫塚古墳は全国でも非常に珍しい双方中円墳という独特の形態をしている。

15・猫塚・雑草に覆われた中円墳
猫塚古墳の中央の円墳、高さは5mとかなり見上げる感じ

築造時期は4世紀前半に築かれた全長約96m、高さは約5mの石清尾山古墳群のなかで最も大きな古墳である。

16・猫塚墳丘測量図
猫塚・墳丘測量図 (高松市文化財課・高松の埋蔵文化財より)


中央の小高い大きな円墳の両脇に小さな方墳を従えたどこか蝶ネクタイのような形をした積石塚古墳である。

17・猫塚古墳航空写真
航空写真(高松市文化財課)

しかし、この日は草が生い茂り下から見上げただけではその形を実感することは難しかった。

18・猫塚の双方のひとつ
円墳の手前を左に回り込むと先に小さな方墳らしきものが・・・

石清尾古墳群のなかでこの特異な双方中円墳はもうひとつ鏡塚古墳(図の◆砲あるが、そちらは古墳上部へ登っての写真撮影が可能であったので、この変わった形を実感してもらえると思える。

49・鏡塚古墳・中円墳から奥(北)の方墳を
積石塚の鏡塚の中円墳から北の方墳を見下ろす

上の写真で大体の感じをとらえてもらえればありがたい。猫塚はこの写真よりも規模は1・4倍ほどであるので、上から俯瞰できればかなりの迫力があると思われる。


讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)
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讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)

1 石清尾山古墳群を代表する積石塚古墳とは


高松市の中心市街地の南西部に位置する石清尾山(標高232m)や紫雲山(同200m)などを擁する石清尾山塊の尾根上に4世紀から7世紀にかけて造成された200余基におよぶ古墳群が存在する。

1・石清尾八幡神社の後背に石清尾山を見る
石清尾八幡宮の鳥居から石清尾山山頂を見る

そのなかでも有力な古墳のほとんどが弥生時代後期(3世紀後半)から古墳時代前期(4世紀)にかけて築かれた積石塚という墳丘を石で積み上げた特殊な形態の古墳である。


その形態がよくわかる積石塚の代表例が善通寺市の有岡古墳群にある野田院古墳(3世紀後半)である。積石は後円部にみで、前方墳は盛土となっている。

2・善通寺・野田院古墳
積石塚の野田院古墳(全長44・5m 前方後円墳・3世紀後半)

全長44・5mという大規模な前方後円墳はこの善通寺一帯を支配していた豪族の首長の王墓とみられるが、標高616mの大麻山(おおさやま)北西麓の瀬戸内海を一望する高所(405m)に築かれている。

0・野田院古墳から瀬戸内海を一望
野田院古墳から瀬戸内海を一望

1700年前もの昔にどうしてこんな山の稜線上の高みに墓所を構えなければならなかったのか。


これから見る石清尾山(いわせおやま)古墳群の積石塚も野田院古墳同様に見晴らしの良い山の稜線上に造営されていることと考えわせ、その理由を探ってゆくことにする。


その善通寺市の有岡古墳群から坂出市の積石塚古墳群、その東方の石清尾山古墳群と讃岐平野を東西に貫き、3世紀後半から7世紀前半にかけて築かれた古墳群の大規模な集積が認められる。

善通寺市の王墓山古墳
有岡古墳群の中央部に位置する王墓山古墳(全長46mの前方後円墳・6世紀半ば)

そのことは、古墳時代の初期において大和王朝はまだ一地方を統べる時代であり、この一帯に勢力を張る確かな王朝が存在していたことを物語っている。


この讃岐王朝の特色ともいえる大規模な積石塚古墳は讃岐の他には長野県の松代市大室古墳群(6−7世紀)に、小規模なものでは徳島県、兵庫県に例が見られる程度で、国内においてはかなり特殊な位置づけの墳墓形式となっている。


ただ、国外に目を転じれば高句麗の首都・扶余(現在の中国東北地方集安県)に多くの積石塚が存在するほか中央アジアにも存在することから、遊牧民あるいはそこから派生した騎馬民族の墳墓形式とする見方もできる。


因みに朝鮮の古代国家・新羅の古墳群が慶州に存在するが、その形式は円墳である。第13代王である未鄒(ミチュ)王(在位 262−284年)の墓をはじめ23基もの円墳が集まる大陵苑の写真が下である。

4・慶州の大陵苑古墳群
慶州の大陵苑古墳群

高さは20数メートルにもおよぶ小高い丘のように見えるものが固まって造営されている。形状は円墳が基本的なものだが、皇南大塚のように円墳が二つつながった双円墳も変化形として存在する。


さらに、最近では、前方後円墳が日本独自の古墳形式だとするこれまでの学説を翻すかのように、前方後円形の積石塚古墳が扶余の周辺で数多く発見されている。


大和王朝を中核に据え続ける唯我独尊の日本考古学をひっくり返す発掘・発見が大陸においては既になされているのである。


つまり類似した墳墓形式を有す部族が朝鮮半島や中国北東部から渡来したという見方を裏打ちする、前方後円墳という墳墓形式が日本独自のものではなく、大陸にも存在していたという事実である。


そうした大陸の墳墓形式の系列に属するとみられる日本で珍しい形態の積石塚古墳を有する石清尾山古墳群をこれから紹介していこうと思う。


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