彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

裁判員制度

裁判員だったら推定無罪?=和歌山カレー事件死刑確定5

来月からスタートする裁判員制度で、もし自分が裁判員だったらと、この和歌山カレー事件の最高裁の上告棄却を聞いて急に恐ろしくなった。

 

 1998年に起こったこの事件は、当時、テレビ、新聞、雑誌などメディアの過激な報道合戦によって、林真須美被告の一挙手一投足が連日、テレビ画面や紙面を通じて国民の目に曝され、被告の水撒きといった印象的な行動が繰り返し放映されたりしたことから、逮捕前から心証は「真っ黒」であった。

 

しかし、刑事訴訟法第336条は「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない」と、いわゆる「無罪の推定」つまり裁判官側に立った「疑わしきは罰せず」を定めている。

 

今回の事件は殺人を犯したという林真須美被告につながる直接的物証がないことに加え、犯罪の動機が解明されぬまま一、二審そして最高裁まで争われた点で、「疑わしきは罰せず」という「刑事裁判の原則」がどう扱われ、最高裁がどう判断するのか、わたしは非常の関心を持ってこの日を待ったのである。

 

 そして21日、一・二審で死刑判決を受けていた林被告に対し、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)は上告棄却を告げた。

 

 その判決主旨は、.レー鍋から検出されたものと同じ特徴のヒ素が林被告宅などから発見された、⇔喩鏐陲蓮頭髪から高濃度ヒ素が検出されており、ヒ素を扱ったと認められる、N喩鏐陲世韻ヒ素を入れる機会があり、カレー鍋のふたを開けるなど不審な行動をしていた等の「状況証拠」を挙げ、「被告が犯人であることは合理的な疑いを差し挟む余地がない程度に証明されている」として、林被告人の上告を棄却した。

 

これによって事件発生後約11年を経て、同被告の死刑が確定することとなった。

 

 また最高裁は、この事件の大きな疑問点であった無差別殺人の動機について「動機が解明されていないことは、被告が犯人であるという認定を左右しない」と一蹴、動機は解明されないままとなった。

 

 刑事裁判においては当然のことだが、挙証責任は検察側にある。ところが林被告の「無差別殺人」の「動機」は何かを証明できぬまま、無罪を終始主張し続けた(一審は黙秘)被告の極刑が確定したことになる。

 

 刑事訴訟法では「有罪の言渡をするには、罪となるべき事実、証拠の標目及び法令の適用を示さなければならない」(第335条)となっており、証拠については標目いわゆる証拠の目録・目次を示せばよいとされている。そのため最高裁は「これこれの証拠によって罪となすべき事実を認めた」、その理由を述べる必要がないことになる。

 

わたしが今回の最高裁の判断を理屈で理解できないのは、どうもその点にあるようである。被告を有罪しかも極刑に処するのに、被告の犯罪と決めつける直接の物的証拠がなく状況証拠だけで、しかも最も重要と思われる「犯罪動機」も解明されないままの判決である。

 

 実際に今回のような刑事事件の裁判員になったときの自分を想定した時、こうしたケースで法曹のプロはどう判断するのだろうかと固唾を飲んでいたのだが、何らわたしに解決のヒントを与えてくれはしなかった。

 

 心証はメディア報道のお陰で「真っ黒」であった。しかし10年余にわたる公判のなかで被告と犯罪を直接的に特定する物的証拠は提示されなかった。しかも動機も。そして判決主旨のなかで林被告が犯人であることに合理的疑いを挟む「余地がない程度に証明されている」と、「程度」という曖昧な単語を使用し、直接的につながる証拠がないことをいみじくも語っているのである。

 

 こういうケースは、まさに「疑わしきは罰せず」になるのではないのか。

しかし、メディア報道や被告の言動を思い出すと、限りなく「真っ黒」である。

 

それでは決断を迫られた時、どう裁いたらよいのか。「庶民の常識」でと言われても、こうした場合「死刑」という極刑判決を下すほどわたしは強靭な精神力と炯眼を持ち合わせていない。こんなことではわたしはとても裁判員として「人を裁く」資格、いや度胸などないと思ったのである。


 

検察庁の分かりづらい判断基準=大麻所持不起訴・中村雅俊長男の俳優俊太氏5

検察庁の分かりづらい判断基準

 

大麻所持不起訴・中村雅俊長男の俳優俊太氏

 

 大麻取締法第6章「罰則」の24条の2項に「大麻を、みだりに、所持し、譲り受け、又は譲り渡した者は、5年以下の懲役に処する」とあるように、大麻所持は重い犯罪である。

 

東京地検は14日、先に大麻取締法違反(所持)容疑で現行犯逮捕した俳優中村俊太(中村雅俊の長男)を不起訴(起訴猶予)とし釈放した。不起訴理由を地検は「初犯で所持量も微量だったため」とした。

 

今回の中村俊太氏の不起訴は、刑事訴訟法第248「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる」、事件事務規定第72220号「起訴猶予 被疑事実が明白な場合において、被疑者の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないとき」に依拠している。

 

 わたしは「相撲界と芸能界、大麻事件にご都合主義のテレビ業界」(24日)で同じ大麻取締法違反(共同所持)容疑で現行犯逮捕・起訴された十両力士(当時)若麒麟の解雇処分に関連し、芸能界の大麻事件との比較においてメディアの対応の違い(芸能界に甘い)を批判した。

 

 そしてこの度は小沢代表の公設第一秘書の逮捕・起訴でも「?」が冠せられた検察庁の対応・公正さへの疑問である。

 

 若麒麟(鈴川真一)被告は逮捕・起訴され、中村俊太氏は逮捕・起訴猶予となったが、同じ大麻所持という行為に対して検察庁の対応の違いはなぜ起きるのか、そこがどうも釈然としないのである。

 

まず、事実関係を整理してみる。

若麒麟は相撲界というプロ、中村俊太も俳優というプロの世界に属する人間である。

年齢は、若麒麟が25才、中村は31才である。

若麒麟の逮捕時保有は5.69g、中村は0.03gである。

若麒麟は大麻吸引の常習性ありとの検察判断、中村は常習性についての言及なしである。

若麒麟の勾留期間は29日間、中村は11日間である。

両人とももちろん初犯である。

 

 

上の事実関係を比較してみて、「法の素人」には若麒麟がなぜ起訴され、中村俊太がなぜ起訴猶予となったのか、その理由がよくわからないのである。

被疑者の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況」という起訴猶予となる要素について、客観的事実を材料に、素人なりに分析してみる。

 

まず被疑者の「性格」は分らぬが、両人とも法で禁じられた大麻に手を染める性格の弱さ、遵法精神の欠如は同様に指摘できる。

「年齢」は起訴猶予となった中村氏の方が31才と若麒麟より6才年上で、より分別はあるはずである。

「境遇」は中村俊太氏が芸能界でも有名な中村雅俊、五十嵐淳子夫妻の長男であり、世間一般的な基準での境遇はよい部類に入ると判断される。一方、若麒麟は兵庫県の飲食店経営の父親の息子であり、普通一般庶民の境遇であったと思われる。一概には言えないものの、「境遇」としては中村氏の方が恵まれていたといってよいのではなかろうか。

 

そして「犯罪の軽重及び情状」の点で、大麻保持量が大きく違うことである。常習性については、中村氏についてのその点の検察側からの情報が世上に出回っておらず(小沢代表秘書の逮捕・起訴ではなぜか色々と情報が漏れてきた)、客観的な判断はしにくい。ただ、中村氏の方が常習性について何ら言及されていないという点で、常習性がないのだという心証が形成されている。

 

こう見ると、本件に対する検察庁の対応の差異は、「年齢」や「境遇」においては中村氏の方が、罪に対する罰は重いと判断すべきだが、「犯罪の軽重及び情状」の点で、起訴・不起訴の対応が分かれたと推定される。

 

若麒麟の時は、逮捕は六本木のCD販売事務所での現行犯逮捕であり、その後、尾車部屋への家宅捜査が入った。中村俊太氏の場合は、逮捕は上高井戸の乗用車(外車)内での現行犯逮捕であったが、自宅などの家宅捜査がその後行われたとの報道はない(自宅に多量の大麻があれば「犯罪の軽重及び情状」は大きく変わるはず。なのに・・・、やった気配はない。なぜ?)。

 

若麒麟について13日、検察は論告で「大麻が少量ではなく、常習的な使用がうかがわれる。相撲界で問題化していたのに安易で無責任だ」とし、懲役10月を求刑した。判決は422日の予定である。

 

 一方の中村俊太について同じ検察はその翌日の14日、冒頭の「初犯で所持量も微量だったため」として起訴を猶予した。

 

 若麒麟と中村俊太の差は逮捕当時に所持していた「大麻の量」と「常習性」であるとしか見えぬ。片方は家宅捜査、もう片方はそれをやったとの報道がない。

そして本来は逮捕時の所持量ではなく、「常習性」の方が起訴・不起訴の判断基準で重きが置かれるはずである。

 

その点において中村氏の場合は「今回が初めての所持であった」というもっとも情状酌量の理由としやすい検察説明がないところを見ると(勾留中の取り調べだけでは)「常習性がない」とまでは言い切れなかったのではなかろうか。

 

そう考えて見れば、若麒麟に対する検察の論告の弁「大麻が少量ではなく、常習的な使用がうかがわれる。相撲界で問題化していたのに安易で無責任だ」を借りて中村俊太氏のケースを再現すれば、どうなるのか。

 

「大麻が量ではなく、常習的な使用がうかがわれるとまでは言えない。相撲界や芸能界を問わず社会で問題化していたのに安易で無責任だが、有名人である爽やかさで売った父たる中村雅俊が「人間として絶対に許されない。事の大きさを認識して生まれ変わってほしい」と涙の会見を行ない、父親が社長である事務所からも解雇し、俳優業も辞めさせる考えを父親が明らかにしたことを大きく考慮」して不起訴としたとなる。

 

太字のポップ体文字の部分がわたしの方で付け加えたものだが、若麒麟の懲役10月求刑と不起訴の差が、このポップ体の部分なのかと浅はかにも推測してみた。

 

当然、検察側には専門的な法律知識・表面に出ていない捜査情報があってこうした判断に至ったということなのだろうが、浅学非才の身のわたしには、今回の検察庁の捜査・取調べには、とことん納得がいかない。

 

 永田町を揺るがした民主党代表小沢一郎衆議院議員の公設第一秘書の「政治資金規正法違反(虚偽記載)」(5年以下の禁固又は100万円以下の罰金)容疑による逮捕・起訴も、これまでの同様の事件に比べて検察庁の判断及び対応は非常にわかりにくい。

 

裁判員制度がいよいよ521日から始まる。わたしも正直、あまり気は進まぬが、裁判員候補にあがれば国民の義務として当然、その責務を果たすつもりでいる。しかし、今回の事件の扱いひとつとっても憲法第14条で謳われている「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とする「法の下の平等」がどうも担保されていないように思われる。

 

こうした検察庁の判断基準の分かりにくさでは、素人のわたしには到底、裁判員の責務は果たせぬように思えて仕方がない。

 

有名人の子供だからといった「門地」が関係しているのかとも邪推したくもなる中村俊太氏の不起訴判断。野党第1党代表の公設秘書だからという「政治的関係」が背景にあるとしか思えぬ大久保秘書の逮捕・起訴。

 

「法の下に」、「差別されない」と謳う憲法第14条を持ち出すまでもないのだが、裁判員制度がスタートする直前のこの検察庁のプロとしての「判断」の分かりづらさ、不透明性がやけに気になるのである。

 

それは、裁判員制度をプロたる権力側の免罪符として巧妙に使われはしないだろうかという大きな疑念、不安がますます大きくなってきているからである。

富山冤罪事件再審判決が語る「裁判員制度」の到着する「最果ての駅」3

富山冤罪事件再審判決が語る「裁判員制度」の到着する「最果ての駅」

 10月10日、富山地裁高岡支部は2002年に発生した強姦(ごうかん)および強姦未遂事件で3年の実刑判決を受け、服役を終えた柳原浩氏の再審公判において同氏に無罪を言い渡した。同氏は服役の2年間を含め逮捕から仮出所までの2年9カ月の間、身の自由を奪われ、服役後も受刑者としての刻印を背負って生き続けてきた。そして不条理な逮捕から5年半を経てようやくの無罪確定であった。

 柳原氏と弁護団は逮捕にいたった捜査の経緯を明らかにするため2回にわたり県警捜査員の証人尋問を要請したが、藤田裁判長は「裁判は罪の有無を決める場だ」としてそれに応じることはなく、判決言い渡しにおいても冤罪(えんざい)発生の原因に触れることはなかった。柳原氏が閉廷後の会見で「真実が闇に消えたままで無罪と言われても、何もうれしくない」とその悔しさと憤懣(ふんまん)をあらわにしたことは、再来年5月までにスタートすることが決まっている「裁判員制度」が有する底知れぬ怖さをわれわれに教える結果となった。

 それは今回の再審判決公判における司法の対応が「裁判員制度」導入の理由として「裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」(裁判所HPの「よくわかる裁判員制度Q&A」)と説明されていることと、真逆に位置するものと言わざるを得なかったからである。今回の判決は信頼感向上どころか、「秘密主義」・「密室性」・「臭いものには蓋(ふた)」といった法曹界の体質がまったく変わっていないことをわざわざ天下に公表したようなものであった。

 国民の参加が義務付けられた裁判員制度で対象となる事件は、簡単平易なものではなく、具体的には「殺人」「強盗致死」「傷害致死」「危険運転致死」「現住建造物等放火」「身代金目的誘拐」「保護責任者遺棄致死」など最高刑が死刑となるような一定の重大犯罪と規定されている。今回、冤罪に問われた強姦罪も「強盗強姦」「強制わいせつ致死傷」などに該当するケースであれば、われわれ国民は裁判官(3名)と一緒に公判に出席し、裁判員(6名)の一人として冒頭陳述、審理、評議、判決手続きという裁判手続きすべてにわたって当事者としてコミットし、「有罪か無罪か」「有罪とすればどのような刑にするか」を決めることになる。つまり、再来年の5月以降はTVのワイドショーで大きく扱われるような事件を、司法に素人のわれわれが裁判官と同じ重さの一票を持って、裁くこととなるのである(一応、被告人に不利な判断となる場合は、プロである裁判官1名以上の多数意見への賛成が必要となっている)。

 その一連の公判過程において裁判員は証人や被告人らに質問したり、証拠として提出された凶器類や書類を取り調べることとなる。立場は最終的には判決を下す裁判員ではあるが、まるでミステリードラマの検事や弁護士のように法廷で振る舞うのである。法律実務にズブの素人にそんなことを期待されても困るが、前述のQ&Aでは「(裁判所が)争点の判断に必要な証拠を厳選して証拠調べを行うなど、できる限り法廷での審理を見たり聞いたりするだけで(われわれ裁判員が)事件の内容を理解できるように工夫された審理が行われます」と説明されている。素人にわかるようにちゃんと判断のおぜん立てを裁判所の側でやってあげますよと言っているのである。

 しかし、今回の冤罪事件における裁判所は5年半前にはプロたる裁判所自身が「争点の判断に必要な証拠を厳選して証拠調べを」行ったうえで、3年の実刑判決を申し渡している。そして別の事件で偶然、真犯人が出てきたことから、それが冤罪と発覚した。

 さらに再審判決において「なぜアリバイの通話記録や現場の足跡の違いといったはっきりした証拠がある事件で冤罪が発生したのか」の真相を何ら明らかにすることもなかった裁判所、法曹界を信頼しろというのも、どだい無理な話というものではなかろうか。

 裁判所がいくらわれわれに「法廷」で「争点の判断に必要な証拠を厳選して証拠調べを行うなど、できる限り法廷での審理を見たり聞いたりするだけで事件の内容を理解できる」ようにすると言っても、実際にはアリバイや証拠があるにも拘(かか)わらず彼らの誤った思い込みでわれわれに知らすことをしないのであれば、われわれ裁判員は裁判官が引いたレールの上をただ走り続け、「冤罪」という「最果ての駅」まで無邪気に乗って行ってしまうことになりはせぬか。今回のような法曹界の体質のままでは、無辜(むこ)の国民を罪人に仕立て上げることを、国民参加の名のもとに正当化さえしてしまうのではないのか。

 現在の法曹界の隠ぺい体質やアカウンタビリティー(説明責任)の欠如を放置したままで「裁判員制度」を一年半後にスタートさせることは、制度導入の理由たる「裁判全体に対する国民の理解を深め、裁判をより身近に感じさせ、司法への信頼を高める」というためだけに断行するにしては、あまりに危険が大き過ぎると言うべきである。一人の善意の国民が一人の無実の国民を罪人に仕立て上げ、しかも場合によっては「死刑」という極刑を下してしまうことの可能性とその取り返しのつかない怖さが、「裁判員制度」には普通にかつ無邪気に存在することを、今回の再審判決はわれわれに教えてくれたように思えてならない。今更などということはない、制度導入の是非を再議論することにやぶさかであってはならない、それほどにこの制度は未熟なままスタートしようとしているのである。



アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

月別アーカイブ
記事検索
プロフィール

彦左衛門

livedoor動画検索
本ブログパーツの提供を終了しました
  • ライブドアブログ