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2014年5月15日午前11時40分から下鴨神社の“社頭の儀”に参列した。
葵祭は賀茂御祖神社(かもみおや・下鴨神社)と賀茂別雷神社(かもわけいかづち・上賀茂神社)で5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に執り行われる例祭であり、1400余年もの歴史を有する。
葵祭といえば、あでやかな十二単をまとい、腰輿(およよ)に載った斎王代の行列の様子が有名であるが、それは祭儀のなかで“路頭の儀”という儀式の一部分ということだそうだ。今回、知人のご厚誼により“社頭の儀”への参列が叶ったが、葵祭の祭儀が“宮中の儀”、“路頭の儀”、“社頭の儀”の三つで構成されていることを初めて知った次第である。
10時半に京都御所を進発した行列は、近衛使代(勅使代)を中心とした本列と斎王代に従う斎王代列に分かれて最初の目的地・下鴨神社へ向けて都大路を進む。
その規模は総勢500余名、馬36匹、牛4頭、牛車2台におよび行列の長さは1km、最終目的地・上賀茂神社までの総行程は8kmにおよぶ。
今回は当初、京都御苑で路頭の儀を拝見し、すぐに下鴨神社へタクシーで向かい、社頭の儀に参列の心づもりでいたが、斎王代の行列を見てから交通規制が布かれたところでタクシーを調達するのは至難の業であると判断し、急遽、下鴨神社へ直行することになった。
下鴨神社へ到着すると、ここも行列到着の1時間以上前というのに人出は多く驚いた。受付を済まし、南口鳥居の脇から“社頭の儀”の催される楼門内へと入ってゆく。
われわれは舞殿の東に位置する橋殿に設けられた平場の席へ着いた。
席は自由ということだったが、すでに前三列まではいっぱいで、四列目に陣取ることとなった。右隣りは斎王代関係者などが坐る椅子席となっていた。
そして、ほぼ予定通りに行列が南口鳥居前に到着との案内があった。11時50分過ぎ楼門が開き、虎の敷物を抱える従者を従えた本列の人物が入って来る。
そして、楽隊の一団が入場したあとに、斎王代の行列が入って来る。
斎王代は鳥居の前で腰輿(およよ)を降りられ、童女に裾を持たせて歩いて参進してくる。
華やかな十二単の衣装が美しい。
今年の斎王代の太田梨紗子(神戸大2年・20歳)さんは、京菓子司老松のお嬢さんである。
女人列の命婦や女官たちが続く様子は、なるほど王朝絵巻を見るようである。
それに続き、社頭の儀の主役である勅使が陪従や舞人を従え、入場する。下鴨神社では、いったん剣の間に入り、勅使は腰の剣を解かれる。
それから参進され、内蔵使代から祭文を受取る。
そして、舞殿の南階段を昇り、しずしずと歩み、祭文の座に着く。
祭文の奏上は微音にて行われるため、頭を垂れたわれわれ参列者の耳にその声は届かない。
祭文奏上が終わると宮司が北階段を昇り、神宣を勅使に伝える。
宮司は一旦、舞殿を退き、今度は神禄を捧げ持ち、階段を昇り、勅使に授ける。
これで祭儀の肝の部分が終了。勅使は舞殿を退下し、剣の間にて佩刀される。
その間に、招待客による拝礼が順次行われる。今年の参列者総代は京都国立博物館の広報特使を務める藤原紀香さんであった。
さすがに他の拝礼者とはカメラのシャッター音が異なった。ご祭神も苦笑いというところだろうか。
拝礼が終わると、神服殿で控えていた斎王代以下の女人たちが退出しはじめる。
その間に佩刀した勅使が陪従を従えて剣の間より出てこられ、橋殿の前に立つ。
そして、東游(あずまあそび)の序歌を陪従が唄うなか、牽馬(けんば)之儀が執り行われる。
馬寮使が馬二頭を馬部に牽かせ、西から東へ舞殿を三廻りする。今年は舞殿正面で馬寮使が最敬礼する度に白馬も一緒に頭を下げるのが愛らしく、参列者に笑みがこぼれた。
そして、舞人による“東游(あずまあそび)”が優雅に披露される。
まず、駿河舞が舞われる。
次に、求子(もとめご)舞が舞われる。
東游が終わって、神前での社頭の儀は滞りなく終了ということになる。
ここで、勅使も陪従や舞人を従え、楼門より退出される。
参列者もこれにて橋殿を去ることになる。
そして、引き続き糺の森の馬場で“走馬の儀”が行われる。
数頭の馬が疾駆し終えて、社頭の儀の一切が終了となる。
11時40分に始まった社頭の儀がすべて終了したのは午後2時10分であった。2時間半におよぶ厳粛な祭儀に参列できて、1400年余続いてきた古儀のなかに息づく日本人の敬虔な信仰の心、文化の伝承の大切さをあらためて思い返したのである。