彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

脳出血

脳卒中へのカウントダウン5

脳卒中へのカウントダウン

2.脳卒中は大きく4つに分類される

脳出血

(ア)脳内出血・・・高血圧、動脈硬化、脳動脈瘤や血管の奇形などが原因で脳内深部で血管が破れて出血するもの

(イ)クモ膜下出血・・・頭蓋骨といわゆる脳みそとの間にあるクモ膜と脳みそを覆う軟膜の間で血管が破裂し出血するもの。原因の8割以上が脳動脈瘤の破裂といわれている。死亡率は50%に達する。

脳梗塞

(ア)脳血栓(けっせん)・・・脳の血管の動脈硬化巣の表面を覆う膜が破れ、血栓ができて血管を詰まらせたり、頸動脈などにできた血栓が脳の血管に流れ込んで詰まるもの

(イ)脳塞栓(そくせん)・・・脳以外の場所、たとえば不整脈が原因で心臓(心房)のなかにできた血の塊が血流に載って流れ着いて、脳の血管に詰まるもの。しばしば、血の塊が大きいので太い動脈が詰まってしまい、重症な脳梗塞を起こすことが多い。

(参考)血栓:血管内の血液が何らかの原因で形成される血の塊のと。主に血管壁が毀損されて起こることが多い。

0豌畧脳虚血発作・・・脳の細小動脈が一過性に詰まったり、細くなって血液の流れが減少して起こる。

す盞谿祇脳症・・・血圧の急激な上昇により脳圧があがり、脳にむくみが起きるもの。脳血管の自動調節機能の範囲を超えて血圧が上昇すると、血液が異常に増加し、脳の毛細血管内から血管外へ血漿(ケッショウ)成分がしみ出し、脳にむくみが生じ、頭蓋内圧が亢進する結果、頭痛・悪心・嘔吐・痙攣・意識障害などの症状が起こる。

 

 ●約30年前の日本では脳卒中患者の2/3が脳出血であった。それが現在では脳梗塞が75%を占める形となっている。食生活の欧米化が原因のひとつと云われている。因みに欧米の脳卒中のなかに占める脳梗塞は85%に達している(日本脳卒中協会)

につづく

,砲發匹

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患者がしゃべる脳出血へのカウントダウン5

脳出血へのカウントダウン

 

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 今、思い起こしてみると、右脳出血する一年半ほど前から前兆となる症状があったように思う。

 

 その代表的な症状は次の四つである。

1.      首筋の右側が棍棒を入れたように凝っていた

2.      少し歩くだけで、すぐ汗が出るほどの暑がりになっていた

3.      人の話を聞いている最中に、頭がポーッとして、遠くから声が聞こえてくるような現象が、何回か、起きた

4.      時折、たいした運動もせず、理由もないのに動悸が激しくなることがあった

 

血圧が高いことは健康診断で指摘を受けていたので、降圧剤の軽いものを毎日飲まされていた。その降圧剤も、今から考えると愚かであったが、飲み始めてすぐ血圧が正常値の範囲内に収まっていたので、一年程で徐々に飲むのを止めるようになっていった。副作用はないと医師から言われていたものの、どこか服薬に対する心理的抵抗感があったのだろう。ひと月ほど降圧剤の服用を止めても、血圧が正常値であったので、自分でその服用をやめてしまった。後で医師から聞いたら、降圧剤は止めてすぐに、効能がなくなるのでなく、数週間は効能が持続しているのだと言われた。わたしが自働血圧計の「健太郎君」で、血圧測定をやっていた一月ほどは、薬は止めたものの、薬効がまだ残っている時期であったのである。

 

わたしは、一年ほどの降圧剤の服用で高血圧が治ったと、勝手に考えた。そして、仕事が急速に忙しくなるにつれ、医師の診断も健康診断のみで、頭から高血圧という言葉が弾き飛ばされていった。

 

そうしたなかで、肩や首筋が凝り、そして時々、ボーッとなることから再び、高血圧が脳裡に浮かんできた。そして、診療所にかかる時間はとても昼間にとることはできなかったので、夕方に自働血圧計で血圧を測りに行き始めた。倒れる3、4ヶ月前当りからだったと思う。

 

社内診療所には「健太郎君」は三台設置されていた。そのすべてで測っても、常にエラーが表示された。ボタンを押すと、差し入れた右腕がギューッと圧迫されるのだが、それが固定、停止しないまますぐに、ふわ〜っと弛んでくるのである。そして、表示板にエラーとメッセージが現われる。機器が壊れているのだと思ったが、いつも看護士も退社したあとであったので、それを伝えることもなかった。

 

「どうしようもないな」と、ブツブツ言いながら自席に戻る日々が度重なった。その頃には、実はわたしの血圧はとんでもないほどに高くなっていたのである。その時に、何とか時間をひねり出して直接に医師にかかり、血圧を測ってもらっておれば、最悪の事態は避けられたのではないかと思う。おそらく、相応の緊急治療がなされたことと思うし、「健太郎君」の測定範囲を超えるほどに血圧が異常に上昇していたことは、簡単にわかったはずである。

 

 素人判断で降圧剤を勝手に止めるなど医師の指示に従わなかったことと、おかしいと思ったとき、すなわち病魔がすぐ脇まで寄り添っている時にも、医師のもとへ向かわなかった無謀さが、その直後の脳出血に至る大きな要因である。兆候は色々とあった。シグナルはガンガン鳴っていた。なのに、わたしはなにも行動は起こさなかったのである・・・。「かえすがえすも」という言葉があるが、「その時歴史は動い」てしまったのである。

 

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おとなのADHD―社会でじょうずに生きていくために

患者がしゃべる脳出血へのカウントダウン5

患者がしゃべる脳出血へのカウントダウン

 

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 わたしの酒量と喫煙量は日増しに増えていった。それと反比例で睡眠時間が短縮されていった。そして、今から考えれば一番、大切であった食生活つまり、塩分の規制については、逆にどんどん塩辛いものへの嗜好が強まっていた。

 

 高血圧の改善に最も即効性があるのは、血液中のナトリウムの量を少なくすることである。逆にいえば、腎臓のナトリウム排泄機能を超えて、血液中の塩分量が増えると血圧が上がる。血中に塩分が増えれば、塩分濃度を一定に保持しようと血液中の(本来排泄されるべき)水分も保全され、その結果、体液量が増加する。その大量の体液を体内中に運ぶためには、ポンプ役の心臓は必死にその血液を押し出す圧力を上げなければならない。つまり、血圧を上げざるをえないのである。

 

 このメカニズムを、倒れる前に詳しく知っていたら、もう少し対応は変わっていたかもしれない・・・、と思って見たりするが、まぁ、生活習慣は恐らく変わらなかったのであろう。「健康のありがたみは失くしてみて、初めてその価値がわかる」という名言があるくらいだから、凡人のわたしがいくら塩分濃度のカラクリを知ったからといって、生活態度や食生活のスタイルを根本から変えるなどということはなかったであろう。

 

 本当に病気というものを回避するのは難しい。わかっていても、病気の真実の姿、つまりどれだけ己の生活が制約を受けるかが、実感でき難いところに、健康の維持に対する努力の方が本当は格段に己の人生に対する負担は軽いことが、この愚かな人間にはわからないのであろう。

 

 年齢が50歳にあと2ヶ月という日に、わたしは脳出血に見舞われた。

 

その悲劇の日に向かって、わたしの体は徐々に悲鳴を上げていったのである。そして、その体の発する悲痛な叫び声にわたしは真摯に耳を傾けることをしなかった。悲劇の日まで2、3年の頃、想起すればすでに脳卒中の前兆は確かにあったのである。悪魔の囁きではなく、天使の囁き、いや嘆きの声がわたしの耳には届けられていたのである。

 

患者がしゃべる脳出血へのカウントダウンーー5

脳出血へのカウントダウン― 

 

,砲發匹

 

2.脳出血の日

 わたしにとって二一世紀の始まりは惨憺たるスタートであり、そして強運のスタートでもあった。

 

20001年3月1日の午後4時、わたしは職場から歩いて5分ほどにある新聞社の論説委員(当時)A氏とビル内の喫茶室で逢っていた。先方からの相談事を紅茶を飲みながら聴いていた。そして、30分ほどした頃だろうか、頭がポワ〜ンとしてきて、A氏の声が少し遠いところから届くような奇妙な感じにとらわれた。最近の仕事の忙しさから疲れが溜まっているのだと思い、用件の返事は後日、担当の人間から話をさせることで、その場を去った。ビルの廊下を歩き出した時に、どこか雲の上を歩くようなふわっとした気分であった。もうその時は、ゆっくりとした歩調になっていたのだと思う。

 

そして、外へ出ると3月の冷たい小糠雨が降っていた。7、8分をかけて会社に戻ったわたしは、一階のエレベーターに通じる廊下をおそらく必死に歩いていたのだろう。退院後、その廊下ですれ違った同期の人物から「目礼をしたがわたしが見向きもせず、顔が真っ青で、ずいぶんと忙しそうだし、また難題がふりかかっているのだな」と感じたといわれた。実際、そこで彼とすれ違った記憶はまったく自分にはない。

 

十階の自分の部屋に戻った時は午後5時ちょっと前であった。椅子に座り、しばらく背凭れに寄りかかり疲れがとれるまでボ〜っとしていようとした。じっと目をつぶった。そして、しばらくして翌日の朝10時に大事な仕事があるため、早退をしようと帰宅の準備をしようと立ち上がった。なにか左手に奇妙な漢字が残った。頭はやはりポワ〜ンとしたままだ。

 

その時、社内診療所の所長にちょっと診てもらってから退社しようと思った。そのひらめきが結果的にわたしの命を救うことになった。6階にある診療所にエレベーターで降り、長い廊下を歩き出した時である、左足が異様に重く感じられ、一歩を前へ踏み出すのにものすごい力を要することに気づいた。壁伝いに所長室へゆっくりと向った、と云うより芋虫の速度でしか歩くことができなかった。

 

「どうした?」

 後日、先生の話では所長室のソファーに座ったわたしの顔は蒼白であったという。言葉を発するのもしんどかったと思う。

「先生、どうも調子が悪い」

 所長がわたしの前に座り、話し出そうとした瞬間、左顔面から血がす〜っと引いていくのがわかった。

「左がおかしい」

 所長が毛筆をもってわたしの左頬をそっとなぞる。毛先が頬に触れているのが下目使いに見える。最初は毛で触れられている感触があった。しかし、その感触がまったくなくなるまでに1、2分もかからなかった。目では見えるのに触られているのが感じ取れない。それは異様で悲しい光景であった。

患者がしゃべる脳出血へのカウントダウン3

「脳出血へのカウントダウン―  

 

1.はじめにあたって

 脳卒中には大きく分けて三つのタイプがある。一つ目が脳梗塞、二つ目が脳出血、三つ目がくも膜下出血である。さらに一過性脳虚血発作といわれるものがあるが、これは比率的にも少なく、大事に至らぬケースが多い。脳卒中死亡のうち、60%強が脳梗塞、25%が脳出血、くも膜下出血が10%強とこの三つの病気で脳卒中による死亡のほぼすべてが占められるといってよい。

 

 このわたしは200131日に右視床部分の脳内出血におそわれた。今から五年前の出来事である。現在、わたしは依然左上下肢に中程度の麻痺を残している。この障害状態が今後も続くことになる。ただ、まだ東京で会社勤めをしている。電車通勤もラッシュ時を避けた時間の通勤にしてもらっており、杖を突きながらではあるが問題なくこなしている。また、日常生活も車も時々運転するし、日常行動の自由度という観点からは相当に軽い範疇に入る後遺症ということになろう。

 

 これから「脳出血へのカウントダウン」というタイトルで、脳出血に至ったわたしの状況を記してゆくことにしたい。脳卒中の原因と推測されることや前兆と思われることなど発症前のことを忠実に記すことにする。そのことで、わたしのケースを参考にしていただき少しでも脳卒中に罹る人々が少なくなれば幸いと考え、五年前の悪夢に至る直前の二、三年間を振り返ってみたい。

 

 

日経新聞 患者の目3

 日経新聞 患者の目

 日経新聞の日曜日の「患者の目」と云うコラム欄に拙文が5回に分けて掲載されたものである。三月五日(日)掲載分から順次、転載したい。掲載文は字数の関係で一部削除せざるを得なかったが、ここに記述されたものは、削除前の文章である。全国で同じ脳卒中で苦しんでおられる方の少しでも力になれれば幸いであると願っている。

1.人の生き死には「運」と「気」

(日経新聞三月五日日曜日掲載)

 

丁度五年前の三月、小糠雨の振る夕方に私は決して軽くない中規模の脳出血に襲われた。外出先から戻った私は頭がぼ〜っとし左手に軽い痺れを感じて、念のためと階下の社内診療所へ向かった。その間吐き気はなかったが、まるで雲の上を歩くようで途中からは足を運ぶのも難儀であった。ソファーに座ると「どうした?」と、所長が訊ねた。「体躯の左側が・・」と口を開いた途端、左顔面の感覚がざ〜っと潮を引くようになくなり、左腕、左脚と上から下へ知覚喪失が広がった。その時、言語を失う恐怖が頭を過ぎった。「先生、僕の言ってること分かる?」「大丈夫!痺れは左でしょ、であれば言語障害はないよ」そのひと言はその時の私にとり最も当為な医療措置であり、気持ちは一挙に落着いた。救急車が到着する間、血圧降下の注射を受けた。後日、恩人の所長から「四十年近い医師生活で眼の前で脳出血した人は初めてだ」と笑われたが、先生の適切な処置が私の命を救い障害の程度を抑えた大きな要因であったと深く感謝している。

 

 病院に運び込まれるとまずCTを受けたが、その辺りから記憶が斑になっている。ICUでは主治医から簡単な足し算の質問を受けたが、ぼ〜っとした頭で「馬鹿にしてるのか」と思いながら数字を口にした。その不遜な答えが正解か否かは未だ確認はとれていない。そして集中的な点滴治療が始まったのだろう、そこからの記憶は翌朝、目が覚めるまで途絶えた。その間、別室で主治医から「視床出血で手術は不可能。二十四時間以内に再出血がないこと等が生存の必須条件」と家族は説明を受けていた。後日、会社の先輩が見舞いに来られ「今回、死ぬかも知れぬと思った瞬間はあったか?」と問われた。私は微塵もなかったと応えた。「それなら大丈夫だ、俺がそうだったから」と力強く励まされた。先輩は以前、命に係る大病をし見事に復帰された。その時、生命とは不思議なもので患者の「運」のみならず「気」というものが人の生き死にに大きな影響を与えることを知った。

 

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脳卒中を克服しよう5

 脳卒中は恐ろしい

 脳卒中は恐ろしい!誰も罹りたくないと思っている。しかし、それは突然、襲ってくる。この私もそうだった。丁度五年前の三月の小糠雨の降る夕方、悪魔が舞い降りてきた。  最初、左手に軽い痺れを感じ、そして立ち上がって歩こうとすると、頭がぼ〜っとして雲の上を歩くようである。幸い、社内診療所があったため、念のため医師を訪ねた。それが私の命を救った。

 医師の前で私は本格的な脳出血に襲われた。直ぐに上下肢に痺れが出て、次に全く知覚を失った。目の前で医師が筆で私の左頬や左手の甲を触るのが見えるのだが、全く知覚がない。完全に私の左半身は沈黙してしまった。救急車が来る間に、医師が緊急処置として血圧降下のために注射をした。ぼ〜っとしたなかで、記憶が残っている。この処置が生命を救い、障害を抑えた最大の要因と思っている。こうした時の初期動作がどれだけ大事かを身を持って体験した。

 救急車で、都内の大学病院に運び込まれた。救急室でCTを撮られ、ICUで治療が開始された。出血個所が手術のできぬ場所であったため、治療は血圧降下剤の点滴投与が主体であった。これは、後に聞いた話である。二十四時間は再出血の危険と出血個所が広がらぬことを家族は祈るばかりであったと云う。関係者を呼べとの医師の話で、家族は緊張した一夜を過ごした。  幸い、私は再出血もなく生き延びた。

 生き延びた要因は色々考えられるが、一番は痺れを感じた時に、直ぐに医師の元に向ったこと(救急車でも良い)である。これは自分の両親が血管系の病気で他界していたため、自分も同じ体質であり、死ぬ時は脳に関係する病であると感じていたため、痺れイコール脳障害と咄嗟に発想したことが大きいと思う。これが神経系の病気と云う風にもし考えていたら、後日に医者に行けば良いと考え、初期動作が大きく異なっていたはずである。変な話、その突発的な病気のブレーンストーミングを自分の頭のなかでそれまで何度もやっていたことが、実際の事態が勃発したときに冷静に対処できた原因であったと思う。 それから、これだけはどう覚悟し、準備しようが神のみぞ知るであるが、出血なり梗塞の場所が致命的な部位であるか否か。こればかりは今の人智では如何ともしがたい。私は視床という場所(眉間の奥)であったが、僅かに致命的な場所をずれていたため助かった。一月の神経内科での治療。そして二ヶ月半に及ぶリハビリセンターでの治療。五年経って今、自分はこうしてパソコンに向かいブログを書き、そして杖を使うが出社もしている。この間の軌跡を少しでも同病の人々の為になればと思い、書き綴って行きたいと思う。

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