大河ドラマ“平清盛” 京都を行く=六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)
大河ドラマ“平清盛”京都をゆく=長講堂
下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町728
平等寺はタイトルにカッコ書きしているように、京都では“因幡堂”あるいは“因幡薬師”の名前で親しまれており、逆に“平等寺”はどちらと尋ねても、「はて?」と首をひねられることの方が多いという。
なぜ“因幡”、はたまた、なぜ“平等寺”という?に答えることが、当寺の由縁、清盛につながる縁を語ることとなる。
「京都因幡堂平等寺略縁起」で、まずはその縁起を知ることとしよう。
平安時代の天徳3年(959)、行平卿が勅使として因幡国に下向し神事が終え帰京しようとした際、重篤の病に臥せてしまった。一途に平癒祈願をしていたが、ある夜、夢枕に異相の僧が立ち、「この国の賀留津(カラツ)の海中に1本の浮木がある。衆生利益のために遠く仏国土(天竺)から来たものである。速やかに海中より引き上げよ」と告げた。早速、漁師に命じ海底に光る浮木を引上げさせたところ、高さ5尺余りの薬師如来像であった。そこで、この薬師像を大切に祀ると病は癒え、無事に帰京することができた。
行平が因幡を去る際にいずれ薬師像を京に迎えると約束し後にしたものの、その後長い年月が過ぎ去った。長保5年(1003)4月8日明け方のこと、行平の屋敷の戸を叩く者があり、戸を開けてみると、そこには因幡からはるばる虚空を飛来してきた薬師像が立っていた。そこで、行平は邸宅内に薬師像を大切に祀ったという。このお話が因幡薬師平等寺の起源ということだそうだ。
当時、洛中に東寺、西寺以外に寺院建立が認められていなかったため、こうした私的な持仏堂が民衆信仰の対象として都の庶民に崇められ、その霊験譚とも相まって、因幡堂、因幡薬師詣りが盛んになったという。そのため千年を経た現在でも、京都の人々は天皇が定めた寺号よりも“因幡さん”と呼び親しんでいるのだから、やはり、千年の都とは空恐ろしいほどに奥深い土地柄であると、改めて思い到った次第である。
またこの因幡堂は浄瑠璃発祥の地ともいわれ、室町時代に猿楽が奉納上演されて以来、江戸時代にはこの境内で因幡堂芝居と呼ばれる歌舞伎も上演されてきた芸能の地でもある。そのため、因幡堂が狂言の舞台となった「因幡堂」・「鬼瓦」・「仏師」・「六地蔵」・「金津(金津地蔵)」といった数多くの曲目が存在している。
さて平等寺という寺号は、薬師如来の功徳は衆生平等に届けられるものとして高倉天皇が承安元年(1171)に勅額とともに下賜されたものだという。
ここに来てようやく大河ドラマ“平清盛(松山ケンイチ)”に関わる人物が登場することになる。第80代天皇である高倉天皇(在位1168-1180)は後白河天皇(松田翔太)の第7皇子で、その母は平滋子(清盛の妻・平時子の異母妹)となる。中宮が清盛の娘である建礼門院徳子(深田恭子)であり、その間に生まれた皇子が後に安徳天皇となる。
美貌の上に箏曲の名手であった小督局(コゴウノツボネ)は高倉天皇の寵愛を一身に受けた。徳子との間に皇子が生まれぬのに、小督に通い詰める若き天皇に岳父清盛が怒り、小督を東山・清閑寺で無理失理に剃髪出家させる。19歳の天皇と21歳の小督局の恋は、二年後の小督の出家により、終わりを遂げる。
その美しくも哀切極まりない物語は、平家物語の巻六や金春禅竹の手による能「小督」として現代に伝えられている。
清盛の怒りを避けるため宮中を逃れ、嵯峨野に隠れ棲む小督が爪弾く“想夫恋(ソウフレン)”の音色を目当てに帝の命を受けた笛の名手たる弾正少弼仲国が小督を探し出し、帝の心を伝える下りは、その若き二人の年齢を想うとまことに切なく哀しい。
その悲恋の主人公・小督局の遺品が高倉天皇が寺号を下賜したというこの平等寺に展示されている。理由は平等寺の歴代住職が長年にわたり清閑寺の住職も兼職したことから、こうした遺品が当寺に残されているとのことであった。
遺品は小督愛用の箏(コト)や蒔絵硯箱が陳列されているが、圧巻は硯の横に展げられている“毛髪織込光明真言”である。小督直筆の写経であるが、その布の横糸として小督が剃髪(テイハツ)した時の黒髪が織り込まれているのである。布の両端に艶の失せた黒い毛髪の先が無数にはみ出し、布の下部を裏返しにして見える裏地には横一線に小督の濡れ羽色をしていたであろう長い黒髪がびっしりとならんでいた。その様を目にした時、まさに息を呑むしかなかったのである。女の情念の凄まじさの風圧に首筋がす〜っとしたのは、わたしだけではなかったと思う。
最後に、平等寺の薬師如来は善光寺(長野県)の阿弥陀如来像、清涼寺(京都・嵯峨)の釈迦如来像とともに、日本三如来に数えられている。
現在、その薬師如来(門前に立っておられたので、立像である)は宝物館に安置されているが、縦長の厨子に納められ、頭巾をかぶっていたのが印象的であった。本堂が幾たびも戦火に見舞われたため、いつの頃からか緊急時に仰向けに如来様を倒して運び出せるように背部に縄と滑車がつく厨子に入れられているのだという。そして頭巾は急いで運び出す際に、仏様の頭部が損傷しないための緩衝材だというではないか。都人によって大切に大切に守りぬかれて来た仏様であることがよく分かるお姿であった。
また、個人的には薬師如来の左脇にそっと鎮座されていた“呉織神(クレハトリ)”と“漢織神(アヤハトリ)”に猛烈な興味を覚えた。この二仏がそろっているのは太秦の広隆寺と蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)とこの平等寺だけだという。広隆寺と蚕の社は秦氏の氏寺・氏神として繋がりの深いお寺・神社であるため良く分かるのだが、なぜ、平等寺にこの二仏がそろっているのか、不思議に思ったものである。
そして、平等寺の創建者たる橘氏が秦氏と強い繋がりを持つのではないかというひとつのヒントになるのかも知れぬと想像を逞しくさせたところである。