友枝昭世の第13回厳島観月能「紅葉狩」の夜

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱

国宝の北能舞台(西本願寺)を拝観しました!

中天の満月に水上能「融」を愉しむ=パルテノン多摩


新熊野神社(いまくまのじんじゃ)=
東山区今熊野椥ノ森町42

能が貴人の素養として確立してゆくスタートの地となったのが、ここ新熊野(いまくまの)神社です。境内には「能楽大成、機縁の地」として「謡曲史跡保存会」の立札があり、りっぱな「能」という字が刻まれた石碑が建立されている。


能大成の地
謡曲史跡保存会の説明書き

能の石碑
「能」の字の刻まれた石碑 



場所は東福寺から東大路通りへ出て東山五条方向へ500m、泉湧寺道交差点からは東大路通りをやはり北方向、東山五条方向へ200mほどゆくと道路に面し左手にある。当神社を創建(1160年)された後白河上皇のお手植えといわれる樹齢900年の「影向(ようごう)の大樟(おおくすのき)」の巨木が見えるので、それを目印に行くとよい。


大樟
樹齢900年の影向の大樟

大樟の石碑
大樟の石碑(京都市天然記念物)



「謡曲史跡保存会」の立札には『当地は能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中三年(1374)のころ父の観世清次と共に大和の猿楽結崎座を率い勧進興行を行なったところで、「世に今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見物していた室町幕府第三代将軍足利義満が、その至芸に感激、二人を同朋集衆に加え、父子を、それぞれ観阿弥・世阿弥と名乗らせた機縁の地である。時の将軍の援助をうけた世阿弥は父の志をつぎ後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日夜、研究努力を重ね、これを今日の能楽に大成させた』と説明されている。要は猿楽という芸能が能という一段高い芸術性をもった芸能に変成する機縁となった場所が、この新熊野神社なのである。

今回の旅は、厳島の観月能に始まり、京都の能に所縁のあるところを巡るものであったが、この新熊野神社は観阿弥の「卒都婆小町」など能の題材となる小野小町ゆかりの随心院拝観の後に偶然、その道筋に立ち寄ったもので、世阿弥に引き寄せられたような気がして、それこそ不思議な機縁を感じたのである。


新熊野神社扁額
新熊野神社鳥居扁額

新熊野神社本殿
本殿

本殿内部
本殿内部

新熊野神社
新熊野神社鳥居正面


最後にこの新熊野神社は、熊野信仰に篤かった後白河上皇が熊野神社の新宮・別宮として創建し、「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する今の熊野という当時の都人の認識がその由来となっていると、当社の「御由緒」にある。当地の現在の地名は「今熊野」といい、町名の「椥(ナギ)ノ森」の「椥」は櫟科の常緑樹で、熊野の御神木となっているものである。そうしたことから推し、しかも古来、この社が「椥(なぎ)の宮」とも呼ばれていたとの言い伝えもあり、この地が大昔は熊野神社の御神木である椥の木が鬱蒼と茂った厳粛な森であったことが容易に窺い知れる。だから、この小さな本殿の後背には中四社や若宮社、下四社が祀られており、本殿をぐるりと一周すれば、熊野詣に匹敵する御利益に与れるという。

熊野詣でが出来ます
本殿を一周すれば熊野詣と一緒の御利益があります