「切り取った事実」の誘惑=能登半島地震(上)

 

325日午前942分に発生したマグニチュード6.9の能登半島地震。その半年後の928日から23日の予定でわたしは半島めぐりの旅に出た。羽田から能登半島のほぼ中央に位置する能登空港まではわずか1時間という至近距離、実際の飛行時間はその半分の30分ほどであった。新聞を熟読する間もなく着陸態勢の機内アナウンスがある。薄く棚引く雲の下に水墨画のような能登の山並みが見下ろせた。

 

 昼前に空港に降り立ち、早速、車で珠洲市へ向かい平時忠(清盛の義弟)の末裔である時国家を参観。築後三百年と伝えられる下時国家の豪壮な茅葺屋敷は2005年に解体修復の大工事を行なったが、その約1年後に能登半島地震に襲われた。幸い倒壊という大惨事には至らなかったものの、柱と壁の隙間や壁の細かなヒビなど震災の爪あとが修復間もない建て屋にはっきりと残されていた。

 

 翌日、今回の地震でもっとも大きな被害に見舞われた輪島市門前町を訪れた。この町名の由来である大きな山門を構える曹洞宗大本山總持寺祖院を参拝した。山門手前の朱色に塗られた白宇橋の欄干が白く今でもひび割れたままで放置されていることになぜかこの地震の甚大さを思った。境内に入ると法堂の観音開きの巨大な扉が大きな隙間を見せ「ハの字」型に傾いていた。また廻廊は観覧し歩くのに支障がない程度の応急措置は施されているものの、コンクリート床には無数のヒビが入り、漆喰壁も剥がれ落ちたままである。座禅修行を行なう禅堂の崩壊寸前の様を目にしたときは、地震当時の凄まじさを伝えているようで殊の外、心が痛んだ。

 

 總持寺の次に輪島漆芸美術館を訪ねた。そこもエントランスに至る石畳に応急措置は施されていたもののいたるところにヒビ割れができ、また軒先が歪んでいるのだろう垂れ下がる鎖樋(くさりどい)の先端がだらしなく地面に接触するなど完全修復には未(いま)だしといった状況であった。

 

そのあと七尾市へと足を向けたが、その途上では道路修復工事のため片側走行の箇所が途切れ途切れに存在した。また山腹などにも土砂崩れの箇所が剥き出しのまま残されていた。能登半島めぐりは、この地域がまだまだ本来の回復には時間を要することを一面で実感させたものである。わたしは、その間、PJニュース「まだ残る震災の大きな爪あと」といったタイトルを脳裡に浮かべながら、地震の痕跡と見れば写真を撮りまくっていた。その日は夕方になり予て予約していた仲代達矢主演の「ドン・キホーテ」を中島町にある能登演劇堂で観劇した。

 

そして東京へ帰宅後、PJオピニオンにタイミングよく掲載された「『忘れられないために』=能登半島地震からの復興課題(上・下)」930日、101日)を興味深く読ませてもらった。そのなかで「切り取られた側面は事実であっても、全体的に見れば、その切り取られた事実が現実から乖離しているケースがある」との指摘に触れるにおよび、わたしは「まだ残る震災の大きな爪あと」のニュース投稿を控えた。

 

と言うのは23日の旅は、旅人の目から見ればそうした被災の痕跡を全体としてはほとんど意識することなく、予定通りスムースに旅程を消化し、楽しい思い出を作ってくれ、わたしは能登旅行を十分に堪能することができたからである。

 

小田氏の取材にあるように「マスコミの格好の取材対象になってしまう倒れかけた家屋など見た目が悪い建物はすべて取り払」い、「そのイメージが能登半島に染みついてしま」わないように観光客のイメージを悪くするところはできるだけ早急に修復するなり、手が打たれていたことは、振り返ってみて実際に観光ルートをめぐってみたわたしが実感したところである。輪島市内の3か所に指定された震災ゴミの仮置き場のうち、輪島の有名な朝市に近い「マリンタウン」では観光のイメージダウンにつながるとして優先的に震災ゴミの処理が進められたことなどはその代表的な例であろう。そうした地元の涙ぐましい対策が功を奏したのだろう、観光客の目には地震の悲惨さが実感しにくい状態にまで表面上は復して見えたのである。

下に続く