福井日銀総裁の任期切れにより戦後初の総裁空席という異常事態が現実となった。サブプライム問題で世界経済が混迷を深め、その影響回避に向けた国際協調が急がれるなかでのG7主要メンバーである日銀総裁の不在である。国際金融の危機の連鎖が懸念される状況下、突発事故ではなく政局要因により中央銀行の総裁ポストが空席となったことは、国家のガバナンス自体が問われかねない醜態を国際社会に曝すこととなった。

 

この異常事態は兎にも角にもわが国の政治レベルの幼稚さをいみじくも露呈して見せてくれたが、なんとも情けない歴史的事例を作ってくれたものである。政争の具となった今回の騒動は、最後まで民主党が同意しないという危機シナリオを準備せずに突っ走った与党に多くの問題があるのは当然であるが、参議院第一党という権力を手に入れ、それに酔い痴れ、弄ぶかのような国会運営に終始する民主党にも同様に大きな責任があることも指摘しておかねばならない。

 

また、総裁空席の事態を引き起こした主因は一義的に国会同意人事を政局に利用した未熟な国会運営のあり方自体に求められるべきであるが、一方で中央銀行の独立性強化という長年にわたる日本銀行の悲願がこの恥ずべき事態を惹起した陰なる要因であることも見ておく必要がある。

 

現在の日本銀行法は戦前に制定された旧日銀法を平成104月に全面改定したものである。中央銀行の独立性つまり金融政策の独立性と業務運営の自主性を法制度として明確にし、あわせて金融政策決定過程の透明性向上も担保することを大きな目的とした大改定であった。新日銀法は当時、さまざまな議論を重ね成立を見たものであり、その評価も独立性を完全に確保したとは言い難いが、旧法に比較し独立性強化に数歩近づいたというものであった。

 

今日の総裁空席の引き金を引いたのは直接的にはねじれ国会という政治情勢にあるものの、日銀の悲願がかなった新日銀法のなかにこそ隠れた原因があるということは皮肉なことである。すなわち旧日銀法において総裁人事は、第16条において「総裁及副総裁ハ内閣ニ於テ之ヲ命ズ」と定められ両議院の同意を必要としなかった。政策委員会の任命委員(現在の審議委員)についてのみ、第13条ノ4の第3項において「両議院ノ同意ヲ得テ内閣ニ於テ之ヲ命ズ」とあった。それが新法では、第23条の役員の任命において「総裁及び副総裁は、両議院の同意を得て、内閣が任命する」と改められた。この「両議院の同意」を政府からの独立性強化すなわち旧法下で広範であった政府の監督権限を縮小するものと日銀がみなし、総裁、副総裁の任命条文においても同文を敷衍(フエン)したことが今回の事態を招いたとも言えるのである。

 

平成10年に成立を見た新日銀法が活発に議論されていた時期といえば、すでに参院選の大敗(平成元年)により自民党の参議院過半数割れが常態化している政治情勢のなかにあった。そうした不安定極まりない政治情勢のなかで中央銀行総裁の任命のあり方につき、危機シナリオを考慮した、例えば同意不成立の場合には現総裁任期の延長といった選択肢を何ひとつ用意していなかったことは、日銀に限らず与野党もまさに危機管理意識に欠けた平和ボケ、政治音痴と言われても仕方がないのではなかろうか。日銀自身が「政府からの独立」に固執するあまり、逆に政治に翻弄される種を新法のなかに埋め込んでしまった、中央銀行の権威を地に落とす遠因を作ってしまったとも言えなくもないのである。

 

ただ皮肉な結果と嘆くだけで事態はもちろん解決しない。こうなった以上はもう一度政治の原点に立ち戻り、中央銀行総裁を国益の観点から候補者のキャリアといった形式基準ではなく能力本位、人物本位で選び、速やかに任命して欲しい。また、とくにこれまでの民主党の総裁人事へ反対する姿を見ていると、参議院第一党の権力に酔い痴れているとしか目に映ってこないのが気になるところである。国民生活の安定、経世済民の視点で政治を行なおうとしているようにはどう贔屓目にみても見えないのである。民主党が政権を担える国民本位の政党であると自負するのであれば、国会という場はいたずらに審議拒否をするのではなく具体的政策論議を真剣に闘わし、そしてルールに則り多数決で粛々と物事を決めてゆくところであることを国民の目の前で分かりやすく行動で示してほしい。

 

中央銀行の総裁不在という事態を国家としてのガバナンスの危機であると認識せずして、25円のガソリン料金値下げに狂奔する国会の様子を見ていると、どう考えても平和ボケ、危機管理意識ゼロの政治、国家と言わざるをえないのである。