次に、六条河原院の実際にあった場所の一画であるとされるのが、地名に塩竈の名を残す一帯である。そこに本覚寺(下京区富小路通五条下る本塩竈町558)があるが、六条河原院の「塩竈の第(だい=邸宅)」があったところだと云われている。所縁の塩竈は宮城県の方に移されたのではとお寺さんは説明されていた。
本覚寺石碑
本覚寺立札
本覚寺(もう閉っていました)
そしてその対面に上徳寺(下京区富小路通五条下ル本塩竈町556)が建つが、現在では境内の世継地蔵の方が有名であるという。
両寺とも拝観時間を過ぎてしまい、内部を見せていただけなかったのが残念であるが、門前の立札に由緒書きがあったが、「通り」の景色に融の霊を感じる風情は一片もなかった。兎にも角にも、本塩竈(もとしおがま)という地名と上徳寺の山号「塩竈山(えんそうざん)」にわずかにその縁(よすが)が偲ばれるのみである。
最後に訪ねたのが、能「融」のなかで「あれこそ籬ヶ島(まがきがしま)候よ、融の大臣(おとど)常は御舟(みふね)を寄せられ。御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし」、「籬ヶ島の森の梢」と謡われた籬ヶ島である。
もちろん、現在、京都市内にそんな島など存在しない(実際の籬島は、現在は塩竃湾の埋め立ての影響で陸地から20mほどの至近の距離に浮かび、往時の絶景の名残はない)。
源融の死後、院は放置され、荒れ果てた。そして、鴨川の氾濫の際に籬ヶ島が水没し、三千本植わっていたと伝わる榎が森として残り、その後も明治時代初期あたりまで「籬の森」と呼ばれていたという(「昭和京都名所圖會」竹村俊則著)。そして、今にただ一本残っているのが、高瀬川沿い、五条小橋の袂に立つ榎の大樹である(下京区木屋町通五条下ル)。何の変哲もないというより、路傍にその榎は忘れ去られたように立っていた。その大きな枝ぶりを見上げれば、歴史を感じさせてまことに豪壮、見事であるが、そこだけが周囲の景色から浮き上がっているようでおさまりが悪く見え、「雅び」という歴史の退化を感じずにはいられなかった。
「籬の森」で一本残ったといわれる榎の根元に立札と石碑が
六条河原院跡を示す立札
わびしさの募る石碑
近隣の景色から浮き上がる榎
頭上の枝ぶりに往時の鬱蒼とした「籬の森」を偲ぶ
豪気で野心的な融の栄華の時代とその後の世を厭うた寂寥の時代が、その見事な枝ぶりの榎の大樹と路傍に六条河原院の由緒を記す小さな石碑を残すだけというアンマッチな情景に、その対比が象徴されているようで、悠久の時間の流れのなかで、人間の小ささや人の一生の栄枯盛衰をことさらに感じさせられた一日であった。(了)
能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱
能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 弐