彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

積石塚古墳

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

3 姫塚・小塚・石船積石塚


石清尾山古墳群分布図(高松市文化財課)
石清尾山古墳群の配置図(高松市文化財課)


【姫塚古墳】

猫塚古墳から舗装された一般道を尾根筋に東へ歩いてゆく。その尾根道の右手には南東から南方向にかけて仏生山そして香南の平野が広がっている。

19・姫塚から仏生山、香南地帯を
讃岐名物の三角山がならぶ

6、7分歩くと峰山公園の第4駐車場入口の真向かいに姫塚古墳がある。姫塚古墳の北側にのびる尾根には次に見る小塚古墳が続く。

20・正面右手のこんもりした丘が姫塚
正面の樹木の茂る辺りが姫塚古墳

3世紀末から4世紀前半に造営された全長43m、高さ3・6mの中規模の積石塚前方後円墳である。

21・姫塚・後円部裾から前方部を見る
後円部の裾から右手に前方墳を見る(積石塚)

石船積石塚とともに前方後円墳の形状が最もよく保存されている古墳である。

22・姫塚古墳航空写真
航空写真(高松市文化財課)だときれいに前方後円墳の形状がわかる

どこかロマンを呼び起こす姫塚という名であるが、古よりここが首長の娘の墓であるという伝承に基づき「姫塚」と呼ばれてきたのだという。そんな1700年も昔のことがいまに語り継がれてきた姫塚。

23・姫塚
姫塚 前方墳(青い柵の向こうの積石)から紅葉した木の下の後方墳の積石塚を見る


民衆にこよなく愛された王女だったのだろう、数多い王家の墓にあってこの姫はその名前は残さなくとも死して王女の墓であることを今に至るまで伝えてきたのだから。


果たしてどんなプリンセスがこの可愛らしい古墳に葬られていたのだろうか、想像は秋の空高く、その羽を広げてゆくのである。


【小塚古墳】

24・小塚古墳測量図
小塚古墳測量図(高松市文化財課)

小塚古墳は姫塚古墳から北へ200mの距離、姫塚古墳と石舟塚古墳のほぼ中間に位置する。

25・小塚古墳
小塚古墳

小塚古墳は古墳時代前期(4世紀)の造営であるが、墳丘中央部を尾根道が走っているため元の形状は破壊され判然しないが全長約17m、高さ約1mの最も小形に属する前方後円墳と考えられている。

26・手前の尾根道に縦断された小塚古墳
小塚古墳を振り返る

ここで舗装道路は終わり、これ以降は自然の一般道を歩いてゆくことになる。

27・小塚古墳からは自然道をゆく

この時点でちょうど午後4時を回った頃。ススキの穂の向こうに傾くのが早い秋の太陽が見えた。


28・午後4時、秋の陽が傾くのは早い


【石船積石塚】

29・石船積石塚古墳へ120mの標示

小塚古墳から自然道をさらに100mほど進むと、右側に石船積石塚へ120mという石板の標示が見える。

BlogPaint

そこから広い本道を外れ、右の狭い小道へと入ってゆく。

31・この先すぐに石船積石塚がある

灌木のなかに一応、人の通る道が続いているものの見通しはきわめて悪い。


しかし、突然に目の先に小高い積石塚が現れる。

33・目の先に石船積石塚が見える
石船積石塚が坂の上に見える

石船積石塚は、4世紀後半に造営された全長約57m,高さは約5・5mの積石塚の前方後円墳である。

34・石船積石塚古墳航空写真
航空写真(高松市文化財課)

後円部は三段、前方部は二段に積石が築かれているのだそうだが、ご覧のように雑草が生い茂り、まったく定かではない。

35・後円部頂には雑草が繁茂・刳抜式石棺が隠れる
石船積石塚・後円部の頂上の石棺も隠れるような状態

前方部も確認出来ぬ状態であり、資料の記述をそのまま転載するのみである。

36・後円部の積石
後円墳の積石

ただ、石船積石塚の後円部中心に露出された刳抜式割竹形石棺は形態上、舟形石棺に分類される。

37・刳抜式石棺 左が棺、右が蓋
刳抜式割竹形石棺 左が棺、右が蓋

石船積石塚に代表される讃岐の刳抜式石棺の成立が全国的に見て最も早いとされている。ことほど左様にきわめて希少価値の貴重な遺跡なのである。


石材としては高松市国分寺町の鷲ノ山産出の鷲ノ山石(石英安山岩質凝灰岩)が使用されている。
この鷲ノ山石の刳抜式石棺は高松平野から丸亀平野を中心に8棺が知られている。

また、香川県外でも大阪府安福寺(柏原市玉手山3号墳から出土(伝))に所蔵されているほか、大阪府松岳山古墳からは刳抜式石棺ではないが、組合せ式石棺の側壁材として使用されているという。
さらに松岳山古墳の周辺には積石塚古墳が分布しているという興味深い事実も存在する。


1600余年前に、ここ讃岐の鷲ノ山で製造された石棺が瀬戸内海を渡り、大阪で古墳に埋蔵する石棺として使用された。


その事実が語り懸けているのは、同じ埋蔵方法を採る部族の存在あるいは石材加工技術の優れた讃岐の石棺をわざわざ運ばせた交易や情報伝達の広範さを考えざるを得ないところである。

備前一の宮駅にある石舟古墳の石棺の蓋
岡山吉備線の備前一の宮駅に置かれた吉備・中山の石舟古墳の石棺の蓋

西暦400年に満たぬ頃に、この重い石棺を載せて運ぶ船とはどの程度の大きさであったのだろうか。また、讃岐の石材や加工技術が優れているという情報はどのようにして広がっていったのか。積石塚を造営する技術集団は讃岐から移動したのか。

ひょっとしたら請負で讃岐からやって来て、完成後には讃岐へ戻ったのではないかと想像を膨らませると現代の常識をちゃぶ台返しをするようで何だか面白くなってきて仕方がない。


古代社会において、人・物の移動、情報の伝播のスピードは現在のわれわれが想像するよりもはるかにずっと早かったのではないか。


何かまだわれわれが知り得ぬ手段や運送技術、理解を越えた社会構造や人的交流といったものがあったように思えて仕様がないのである。

38・刳抜式割竹形石棺
石清尾山・石船積石塚の刳抜式割竹形石棺

そんなお宝をあるがままで目にする幸せには浴したものの、棺内に雨水を溜め雨ざらしにされている姿は痛々しく、稀少文化財の保存の観点からはレプリカに替えるといった手当が早急に講じられるべきだと強く感じた。


そんな石船積石塚であるが、石棺は何とか目にできたもののその全貌は草で覆い尽されており、前方後円墳の形状は分りかねる状態であったのは如何にも残念であった。

39・石船積石塚頭頂部

しかし、その石棺の置かれた後円墳の頭頂部からの眺望は1600年余を越えた今日においても、まことに壮観であった。

40・石棺からの眺望

見晴らしの良い尾根伝いに積石塚を築き、そこに埋葬された人々とはいったいどのような部族であったのか、妄想は風船のように膨らみつづけ、興味は幼児の好奇心のように尽きることはない。




 

 

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳

善通寺市内に五岳山と呼ばれる屏風のように聳え立つ山塊がある。西から東へ、火上山・中山・我拝師山(がはいしさん)・筆の山・香色山(こうしきざん)と麓を連ねている。

火上山・中山・我拝師山  左:筆の山 右:香色山
左から火上山・中山・我拝師山 次の右手の尖っているのが筆の山・右端が香色山

その東端の香色山東麓に、「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号する四国霊場第75番札所・善通寺が大きな伽藍を配する。


善通寺
善通寺

弘法大師・空海はこの地の豪族、佐伯善通の子として生まれ、幼名を真魚と称したという。

善通寺の西院は佐伯氏の邸宅があった跡であり、弘法大師生誕の場所として、産湯井堂を再建するなど今でも大切にされている。

産湯井堂 空海が産湯を使った井戸
産湯井堂と中にある産湯の井戸

空海が生まれ育ったこの場所のすぐ西方、香色山・筆の山・我拝師山の連山と、南方の大麻山(おおさやま)に挟まれた弘田川流域、“有岡”と呼ばれる低丘陵部がある。


王家の谷・有岡地区
王家の谷・有岡地区
善通寺済世橋より大麻山と香色山裾を
善通寺・済世橋より大麻山を見る。右手の山すそは香色山

この地が1600年ほど前には住居跡などの痕跡が少なく、逆におびただしい数の古墳や祭祀の場所であったことが確認されている。


つまり、古は奥津城(おくつき)の地として聖域視された、いわば日本版“王家の谷”とも呼ばれる聖地であったと考えられるのである(『善通寺史』・総本山善通寺編を参考とした)。


善通寺市内には現在確認されるだけで四百を超える古墳が存在し、就中、この有岡地区には大小の前方後円墳が集中していることで、全国的に有名であるという。

左に樽池を見て、奥に見える大麻山へと向かいます
ここから奥に見える大麻山の頂上近くの野田院古墳を目指す

そのなかで、大麻山山麓の比較的高所に分布する大麻山椀貸塚古墳・大麻山経塚・御忌林(ぎょうきばえ)古墳・大窪経塚古墳・丸山一号、二号墳、そして大麻山北西麓(標高405m)に位置する“野田院古墳”は、古墳時代前期に築かれた古いもので、しかも石だけを積み上げてゆく積石塚古墳というこの時期の築造法としてはわが国ではきわめて珍しいものである。

野田院古墳と大麻山頂上
野田院古墳から大麻山頂上を見る

この三世紀後期から四世紀前半という古墳時代のごく前期に築造された積石塚古墳は、同じ香川県の高松市の岩清尾山古墳群で確認される二百余基の古墳のなかに20基ほど存在している。

二段の積石塚古墳
二段に石が積み上げられている

なお、この希少な積石塚古墳は、古墳時代後期に築造されたものが遠く離れた長野県や山梨県、群馬県に存在するが、その頃には讃岐地方で積石塚古墳はすでに消滅しており、それらとの関係はまだ研究が進んでおらず、不明とのことである。

円墳上部
後円墳の上部・二つの竪穴式石室の仕組みが見える

野田院古墳はその調査で傾斜地に築いた基礎部を特殊な構造で組み上げることで、変形や崩落を防ぐというきわめて高度な土木技術によって作られていたことが判った。

展望台より野田院古墳
展望台より見る

この特殊な古墳築造形式やその技術の起源だが、現在、まだはっきりとした定説はない。

前方墳より後円墳を見る
前方の方墳から積石塚円墳を見る

しかし、この形式の墳墓は高句麗や中央アジアの遊牧民の埋葬様式として数多く見られるという。また、慶尚南道にも積石塚古墳が見られるという。

方墳
前方墳です、手前に一部、積石塚円墳です

その積石塚古墳の形も、高句麗など北方は方墳、慶尚南道の朝鮮半島の南部は円墳が多いということであるが、当地の円墳という墳形を朝鮮半島南部と直接的に関連付けるのは、まだ早計との判断のようである。

野田院古墳
山腹を削った平坦地に野田院古墳がある

さて、野田院古墳であるが、大麻山中腹のテラス状平坦地で、王家の谷である有岡地区はもちろん善通寺から丸亀平野を一望に見渡し、瀬戸内の海、さらには備前地方まで見通せる特別な場所に位置している。

王家の谷を見下ろす野田院古墳
晴れ渡った日には瀬戸内海を越え、遠く備前の地が見える

しかも築造年代が三世紀後半、卑弥呼の時代(248年前後に死亡)の50年ほど後の古墳時代のごくごく初期となれば、その埋葬主も王家の始祖にも等しき重要な人物と考えてもよいのではなかろうか。


その王家というのが、前述した弘法大師、空海の出自である佐伯氏という豪族である。

五岳山・左より火上山、中山、我拝師山
野田院古墳から王家の谷を見下ろす

王家の谷を見下ろし、すぐ先に瀬戸内海を一望する特別の地に眠る王が、のちの国家鎮護の密教・真言宗の始祖、空海の祖先であるということは、大和王朝の成り立ちや天皇家との血筋の関係においても、色々と興味深いものがあると考えたところである。


如何せん、野田院古墳から見下ろす景色が壮大かつ雄渾であることは、ここの展望台に立ってみないと実感できぬ醍醐味であることは確かである。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(中)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 14 (胡禄御子(コロクミコ)神社)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳(2013.11.23)

(「アマテル」の「テ」は「氏」に下バーの「_」)


●阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)について
「15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)」の「紀」の注1につづく


【仲哀天皇二年7月―8月条 「熊襲征討」】

「阿閉嶋(アヘシマ)」の記述あり。山口県下関市北西の海上にある六連(ムツレ)島の西北の藍島のことか。(紀第一巻P407の注13)


【神功皇后(摂政前紀仲哀天皇9年4月―9月条) 「神助により新羅親征」】

「是(ココ)に吾瓮海人(アヘノアマ)烏摩呂(オマロ)をして、西海(ニシノミチ)に出でて国有りやと察(ミ)しめたまふ。還りて曰(マヲ)さく、『国見えず』とまをす。又、磯鹿海人(シカノアマ)名草(ナグサ)を遣わして覩(ミ)しめたまふに、数日(ヒカズヘ)て還りて曰さく、『西北に山有り。帯雲(クモイ)にして横に�嚀(ワタ)れり。蓋し国有らむか』とまをす。」

がある。

こうした記述を参考にするとしても、新羅との外交交渉を担当する
阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)は、紀の注釈にある伊賀国阿閉郡を本拠とする氏族や下関の阿閉嶋(アヘシマ)出身の人物とするより、当時の新羅征討に関連する人物群や地勢的特性から推定して、対馬の「阿連」、旧名「阿惠(アヘ)」に棲む海人族の一支族とするのが、妥当な解釈のように思える。仲哀天皇9年4月―9月条の磯鹿海人(シカノアマ)も、新羅征討の伝承に深く関わる志賀島のやはり海人である。

ここで、以上の『顕宗紀』に係る「紀の注記」をまとめると、以下の通りである。

    日神(ひのかみ):延喜式神名帳に対馬島下県郡 阿麻テ留(あまてる)神社

    磐余:神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇の名前の中に「磐余」が入っている。「神」は神々しい。「日本」の文字は「公式令」詔書式の規定による修文、このヤマトは奈良県。「磐余」はイハレ、桜井市中西部から橿原市東部にかけての古地名。

    高皇産霊(タカミムスミノミコト):「延喜式」神名に「大和国十市郡目原坐高御魂神社」、対馬島下県郡高御魂神社

    対馬の下県直(シモツアガタノアタイ):「姓氏録」摂津未定雑姓に「津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也」

    祠:高御魂神社の祭祀をさす


(参考)

*高皇産霊

高皇産霊神は忌部氏の祖神であり、阿波や讃岐地方と深い関係があると考えられる。その地域には同様の墳墓形式、すなわち前方後円墳以前の積石塚墳墓が集中している。高句麗系の墳墓様式とされる積石塚墳墓は、対馬や香川の高松市の石清尾山、徳島の吉野川流域、和歌山、長野県といったツングース系渡来人が居住していたといわれる地域に多い。


以上をまとめて整理すると、「顕宗天皇紀」は、天照大神が対馬で顕れ、月読尊が壱岐で顕れたと述べている。そこで云う「日神」並びに「月神」が一般論の日・月信仰のものでないことは、人に憑依した日神・月神双方ともに、「我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)」と、云っていることである。

それはつまり、伊奘諾尊・伊奘冉尊から遡る(「神代7代」の3代目が「
高皇産霊」であり、7代目が「伊奘諾尊・伊奘冉尊」である。「高皇産霊」は「伊奘諾尊・伊奘冉尊」の直系の祖である)という意味で「
我が祖高皇産霊」と云っているわけで、「日神」は別名「天照大神」であることから、対馬が天上界すなわち高天原ということに論理的にはなるということである。

なぜ、大和から遠いしかも離島の対馬で日神が出現し、壱岐で月神が顕れ出たのか。それは、日本書紀が編纂された当時の人々にとって対馬と壱岐という地に日神、月神が顕れても不思議ではない、或る共有化された事実、歴史認識があったと考えるしかないのである。

であれば、「天照る」は「海人(アマ)照る」の方が対馬には相応しいとするのが自然である。つまり、高天原は天界ではなく絶海の只中に浮かぶ島(対馬・壱岐)の上に存在することになる。

天孫降臨族の祖先が、大陸・半島から九州・本州へ渡る際に必ず中継点として足を止める地が「対馬」であった。そして、そこはそもそも先住人たる海人族が支配する土地であった。つまり、山幸彦と豊玉姫の伝説はそのことを伝える物語であったことになる。その王族二人の婚姻こそが天孫族と海人族の融合を示す説話ということになるのである。

結論的に対馬・壱岐は海人族と混血した「新たなる天孫族」の発祥の地・本貫の地ということになる。そしてそうした認識が「紀」の時代の支配者層にはあったと云うのがロマンを求める筆者の見解でもあるのである。

その日神たる天照大神を祀る伊勢神宮の源流が、これから紹介する「阿麻テ留神社」ということになる。「テ」は漢字では「氏」の下辺に「_」の下バーを記した文字。



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