女系天皇について 

 推古天皇(女性)紀を資料に「女系天皇について掘廚鮟颪海Δ隼廚辰震霎茲法∪杪に皇統の在り方を決定しようと何故か焦る小泉総理に冷や水を浴びせるようなと云うより、ある種の天意を感じさせるような出来事が出来した。2月7日の秋篠宮妃ご懐妊のニュースである。このニュースが報道されてから、政界、メディアでは「皇室典範改正」について一挙に慎重論が昂まった。

 まずは、ホッとしているのが私の正直な気持ちである。二千年近い伝統を誇る「天皇」の中身が一朝にして変わろうかと云う当面の危機がまずは遠のいたと考えるからである。 男系で二千年近い皇統をつないでいる王家は世界でこの日本のみである。四、五千年の歴史を有し、数多の王朝を戴いた中国もひとつの皇統で繋がって来たものではない。真に日本の皇統こそ「熊野古道」どころでない「世界遺産」であると云って良い。日本の伝統・文化を見詰めなおす絶好の機会と捉えて、国民が「国の誇り」を冷静に考えて見る必要があろう。そこで、古来、天皇・王というものがどういう風に捉えられていたかを、推古紀を参照に考えたいと思う。

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 【推古天皇紀三十二年十月--日本書紀⊂学館】 

 冬十月の癸卯朔(キボウツイタチ)に大臣(*蘇我馬子)は阿曇連・阿倍臣摩侶の二人の臣を遣わして、(推古)天皇に奏上させて「葛城県はもともと私の生まれた土地です。それゆえ、その県に因んだ姓名を付けております。そこで、永久にその県を授かって、私の封県としたいと存じます」と申し上げた。ここに(推古)天皇は詔して「今、私は蘇我から出ており、大臣(馬子)は私の叔父でもある。それゆえ、大臣の言うことは、夜であれば夜の明けぬうちに、朝であれば日の暮れぬうちに、どのような言葉も聞き入れてきた。

 しかし、今我が治世に、突然この県を失ったら、後世の君主は、『愚かな婦人が天下を治めたために、急にその県を滅してしまった』と仰せられるであろう。決して私一人の愚行では済まず、大臣も不忠とされ、後世に悪名を残すことになろう」と仰せられて、お聞き入れにならなかった。

 *蘇我馬子:有名な大化改新(西暦645年)で、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)の政変により暗殺された蘇我蝦夷(エミシ)の父で、第33代天皇推古天皇、第31代用明天皇の母である堅塩媛の兄にあたる。推古天皇は馬子の姪にあたる。

 *蘇我蝦夷は第35代皇極天皇(女帝)元年の紀に「蘇我大臣蝦夷、己が祖廟を葛城の高宮に立てて、八佾(ヤツラ)の儛(マイ)をす」と云う記述があるが、八佾儛は中国周代の舞楽の決まりで天子のみが舞わせることのできる縦横八人毎、計六四名で舞う壮大な儛〔天子の儛が八佾(ヤツラ)、諸侯が六佾(ムツラ)、大夫が四佾(ヨツラ)となっており、一佾は毎列八人と云われる〕。蝦夷は王として振舞ったことが日本書紀に記されている。

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 馬子が推古天皇に要求したのは、葛城という王家の王地を寄越せ、即ち自分が王家に取って代わる下準備と云おうか、王家簒奪の行為に等しかったと考えられる。その証拠に、時代が下がって、馬子の子である蝦夷はその葛城の地に「高宮」と云う宮殿と思しき建物を建て、そこで天子にだけ許されるはずの八佾の儛を踊らせている。そうした王家にとって聖地とも云える県を所望した叔父に対し、女帝の推古天皇は「愚痴婦人」が天下を治めた途端にこのような王家に関る大事を決めることなど出来ぬと断っている。

 ここのニュアンスは、当時、既に正統な皇統が男系であり、女帝は一時的な繋ぎであったことを匂わせるものであり、仮の立場で王位に就く自分が決めるべきではないと拒絶している。西暦624年の時代において、皇統について男系で繋ぐという伝統、考え方が成立していたと云ってよいのだと考える所以である。

 この推古紀を引き合いに出して女系天皇問題を論じるのは女性が駄目というためではない。私が云いたいのは女だから駄目ではなく、もし、この国の王家の皇統が女系で二千年続いてきているのであれば、皇統の継続に危機感が生じた時には、同じように女系を護るべき智恵を国民でじっくり出し合い、伝統を後世に引き継ぐ責任のある今を生きる日本人として、推古天皇が云われたように「愚痴日本人」が深くも考えずに皇統の在り方を変更したら、後世の人から「平成の日本人は国を滅した、世界に誇るべき伝統を弊履のように捨て去る愚行を行なった」ときっと云われることとなろうと云いたいのである。一旦、滅した伝統は二度と戻らぬ。我々はその時間の重み、祖先が様々な智恵を駆使して護ってきたこの国の歴史の希少さにもっと思いを致し、この女系天皇問題については智恵を搾る必要があると強く思うのである。