「豪憲君事件に見るメディアの人権意識の本性」

 

 秋田県藤里町の町立藤里小学校1年米山豪憲(ごうけん)君(7) が殺害された事件に、わたしは日本のメディアが、日頃、麗々しく唱える「人権擁護」というお題目に対するかれらの本性を見てしまう。

 

 TV報道ではさすがにそうした映像は放映されていないが、現地では犯人は誰某で、その人物の家の前にはカメラの放列が敷かれているという。

 

 これは一体どういうことか。

 

 地域の噂や素人の捜査まがいの調査で、その人物が犯人らしいとして、その人物の人権をまったく無視した形で、その家を取り巻く。このような暴挙、人権の蹂躙が放置されて良いものだろうか。決して許される行為ではない。とくに、日頃、人権擁護に対しては殊更に声高に論陣を張っているメディア各社が、現にこの瞬間もカメラをその人物へ向け、その瞬間を狙っているという。この日本は言うまでもなく、法治国家である。報道の自由の前に、当然のことであるが、基本的人権がひとりひとりの国民には保障されている。

 

憲法の第11条に「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とある。また、第31条の「法定の手続の保障」において、「何人も,法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」そして、第32条の「裁判を受ける権利」において、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」とある。

 

 現在、司法当局も他の公権力のどこもこの事件の容疑者を発表していないし、当然、起訴もしていない。しかし、秋田県で展開されている報道陣は、あたかも容疑者が公表されたかのような対応をとっているという。逮捕の「決定的瞬間をものする」ためにである。

 

 報道機関の使命とは一体何か?

 

 毎年、季変わりの頃に放映する愚にもつかない「カメラが捕らえた決定的瞬間」といった類の番組のために、報道機関はその権力を乱用するのだろうか。まさか、そうではあるまい。国民もそんな馬鹿げたことを報道機関に期待などしていない。

 

国民は権力のチェック機能として、報道機関にある種の特権を与えているのである。決して、か弱い個人の基本的人権を踏みにじって良いなどと思って、報道の自由を保障しているわけではない。報道の自由の裏には、厳格な「運用に関する自己規制」がなければならぬ。自らが自主的にそこにタガをはめてこそ、権力と正面から対峙し、権力の暴走、自侭をチェックするメディアの役割・使命が果たされるのだと思う。

 

 その意味で、いま、豪憲君事件での報道機関の姿勢は、まったく見当違いのことを行なっていると言わざるを得ないし、誠に心外であるが「人権意識」の欠片もない行動をとっていると断じざるを得ない。日頃、マスメディアが様々な局面を捉えて、口を極め強弁する「人権擁護」とは、そもそもかれらにとって何なのか、その本意を知りたい。

 

報道機関は決して、司法権力でも、警察権力でもない。国民がその「知る権利」を付託している民間の組織なのである。一国民の基本的人権を踏みにじるような行動は、この意味からも本末転倒であり、どんな理由があろうが、断じて許されるべきものではないのである。