彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

石原慎太郎

石原慎太郎の第3極結集の理由が低レベルで笑わせる

80歳になる石原慎太郎東京都知事が10月25日、緊急記者会見を開き、「今日をもって都知事を辞職する。国会に復帰しようと思っている。新党を立ち上げて仲間とやっていく」とし、都知事の辞職、国政復帰を表明した。

さらに、国政復帰への思いを「最後のご奉公。硬直した中央官僚の支配制度を変えないとダメ。役人と戦っていかないと、この国は沈んで窒息して死ぬ」と語った。

大手メディアはこの石原という話題性には事欠かぬ男が動き、こぞってすわ第3極結集かいや乱立かといった論調で大騒ぎしている。

しかし、メディアを含めて冷静に考えてもらいたい。そもそも石原という政治家がこれまで何ほどの実績を残してきたのか。日本の国益にどれほど貢献してきたというのか。

政治家は口舌の徒にあらず、やってなんぼの世界である。

そのことを検証せずして、いたずらに第三極陣営に大石が投じられたような見方は、甚だ見識に欠けると言わざるを得ない。

この時代、メディアに見識をそもそも期待することが大間違いというのは、世間一般の共通認識になっているようで、前段の表現は適当でないのかも知れぬが、80歳になった都知事が突如噴出した国救いという老いの一徹を理由に、無責任にも4年の任期をわずか1年半で放り出し、好き勝手を許すことなどあってはならぬ。

そもそも国救いを心底熟慮していたのなら、多選弊害が言われるなか、昨年の都知事選に何も4期目を目指すことはなかったはずだ。奇しくも3.11午後の大震災勃発直前の都議会本会議のなかで、立候補を表明。

さらに震災後の14日、石原は再度出馬宣言、事実上の後継候補であった神奈川県知事(当時)の松沢成文はその傍らで立候補断念を表明するという後味の悪い記者会見を覚えている人も多いと思う。

そこまでして都知事を選択しながら、突然の辞任さらには国政復帰表明とは、都民を愚弄し、舐めきった破廉恥漢と呼ぶしかないし、選挙で選ばれる公選知事を“猪瀬で十分”などとオーナー企業じゃあるまいし、どこまで成り上がっているのか、この男は、憤懣はつきない。

昨年、煮え湯を飲まされた松沢成文氏に至っては、“猪瀬で十分”をどう聞いたのだろうか、はっきり“ふざけるな”と吠えれば、次期都知事の目もあろうってものなのに。

そんな人非人が国政復帰、第三極の結集とか話題にすることすら不愉快極まりないのだが、ここは冷静に語らねば、大手マスゴミ、失礼、大手マスコミと同レベルになってしまう。

そこで、石原の政治家としての実績の検証であるが、彼が国政で、また国務大臣として何か具体的な政策を仕上げたという記憶はないし、今回、調べても政治家として特筆するようなものは見当たらぬ。国政に置いて目立つのはやはり青嵐会の活動だけ要は口舌の部分だけだったといってよい。

次に都政をあずかった13年半で記憶に残る“政(まつりごと)”といえば、緻密な事業計画検討もされぬままの新銀行東京設立、そして1000億円におよぶ財政負担。

ディーゼル車排ガス規制で都民の命を救ったと高らかにその成果をひけらかす一方で、土壌汚染が判明している豊洲への強引な築地市場移転の決定を行なうというご都合主義の環境問題無視の姿勢。

視察と称し、公費による妻同伴の豪勢な海外旅行、煮詰まらぬままに猛進し、失敗した東京五輪招致、低所得者に対する都民税減税公約の当選後の一瞥もせず反故、週23日のみの登庁という都民を舐めきった所業の数々。

重度障害者に対し「ああいう人っていうのは人格あるのかね」といった発言に代表される差別発言、傲慢発言の数々・・・、本当に枚挙に暇がないとはこの男の非道をあげつらう時に使う言葉なのだと、本日、気がついた。

そんな男がこの国難の時に、第三極かなんだか知らぬが、俺が中心となって風を起すなどとよくぞほざけたものである。

30日、たちあげれ日本の全国拡大支部長会議の席上で、石原はこう述べたという。「政策のあそこが違う、ここが違う、とつまらんことを言うな。小異を捨てて大同に就かないと、大きなヤマは張れない」と。

日本維新の会やみんなの党と原発政策や消費税増税問題など小異であるとし、野合しようぜと吠えている。理念と現実の問題の妥協をはかるのが政治のはず。その泥臭く地道な調整が政治そのものであるはず。

それを小異を捨ててと言い捨てるこの男。もう怒りを超えて、この低能レベルを笑うしかない。

自分に都合の悪い質問には恫喝や話のすり替えで逃げ続けてきた本質的には怯懦な男、石原の胡散臭さがここに来て、腐臭へと変わり、その毒によりこの日本は奈落へと落とされるのだということをよく肝に銘じなければならぬ。

くれぐれも大手メディアの目くらましに騙されぬよう、今後の政治の動向に五感を研ぎ澄まし、己の基本軸をぶれさせずに大局を過たぬ判断をしてゆきたいと心から思っている。

言葉を商売とする小説家の言葉とは思えぬ、石原のおよそ人の心を打たぬ空疎な単語の羅列、まぁ、かれを一度も一流の小説家などと思ったこともないが・・・、そんな人間の大言壮語、唾棄して痰壺に飛ばしてやればよい。

まだ都知事の仕事をすべき人間が、今度の選挙で当選するかどうかも分からぬ男が、まぁ、よくぞテレビの前で、偉そうにほざけたもんだと心底胸糞が悪いといったらない。

もうこれくらいで止めよう、この怯懦な男と同じ低レベルまでどんどん落ちていってしまうから・・・

「総ての責任は司令官たる自分にある」=新銀行東京5

「総ての責任は司令官たる自分にある」=新銀行東京

つい先日、藤田まこと主演の東映映画「明日への遺言」を観た。東海軍管区司令官であった岡田資(たすく)陸軍中将が名古屋空襲の際に撃ち落とされた米軍飛行兵を処刑した責でB級戦犯として裁かれる法廷ドラマである。タイトルの言葉はその岡田中将が横浜第一号法廷の審理において自分自身の助命嘆願を一切行うことなく自分と同じ罪に問われた19名の部下をかばい、また法理に基づく信念から何度となく繰り返し発された言葉である。「名古屋空襲は無差別爆撃であった。それは(戦争のルールを定めた)ハーグ協定違反であり、従って捕らえられた米兵は俘虜ではなく非戦闘員を大量殺戮した犯罪者として、処罰を行なった」という理屈である。しかし、判決は「ハング(絞首刑)」であった。その判決が下された場面で傍聴席の妻に対し「本望である」とだけ声をかけた中将の姿は、トップにある人間の責任のとり方、身の処し方としてまさにその品格、人の上に立つ人間の高潔な品性を感じさせるものであり、深い感銘を受けた。

 新銀行本店看板 新銀行正面

新銀行東京の入るビル

 

 

 

 

 

 

 

  新銀行東京本店    新銀行東京本店正面     新銀行の入る大手町のビル

 

翻って、400億円もの巨額増資要請で目下、都議会で紛糾している新銀行東京にかかる石原慎太郎都知事の一連の発言をみると、トップたる人物の覚悟のあり方において天と地ほどの違いがあると言わざるをえない。都議会の野党の責任追及に「最初からわたしが社長だったらもっと大きな銀行にしていますよ」(朝日新聞3月12日朝刊)とうそぶく姿は、新銀行の発案者でもあるトップたる人物の品格の欠片も感じられず、責任逃れに汲々としているように見える。

また、この2月29日の都の定例記者会見で番記者の「今現在の経営陣について(都知事は)リリーフだというふうにおっしゃったんですけども、これを刷新するタイミングというのはどのあたりをお考えになっているんでしょうか」(東京都HPより。以下同)との質問に対して、石原知事はさあ、これは銀行の当事者とも話しましてね、その後のセカンドステージの展開が、具体的に決まった段階だと思います。それはできるだけ急がなくちゃいかんと思っています」と、当然だが84%の実質オーナー株主である東京都の首長として、自分が発案し設立した銀行の人事権に大きな影響力を持つことを心ならずも口にした。

しかし、その直後の「知事は先だって、責任については、ご自身に諸々の責任があったというふうにおっしゃっているんですが、『諸々』というのは、もう少し、どのあたりに責任があったとお考えでしょうか」との質問に対しては、「まあ世の中は、この銀行を石原銀行と言われるからね、頭取の石原に責任があると言われればそれっきりかもしらんが、これは非常に皮相なものの括り方でね。私はとるべき責任はとるつもりでいますよ。しかしですね、どういう形でとるか、那辺に問題があって、それがどういうふうに構成されて、こういう事態になったかということを詳細に、要するに皆さんにわかっていただき、私も承知しなければ、今後の処理だってでき切れないでしょう」と、知事に責任があるという見方は皮相な考えであると、どこか第三者といった口ぶりでいたって歯切れが悪いのである。「公が民業」に進出することへの批判をものともせず、新銀行プロジェクトの言い出しっぺであり一番の推進者でもあった自治体のトップとして、この言い逃れとも見える様は冒頭の岡田中将をひきあいに出すまでもなく、いかにも見苦しい。

今回の400億円の増資要請と併せ、新銀行は2月20日付けで本文わずか5ページの「再建計画」を公表した。この再建計画を読み込むのにものの数分も必要としない。この数ページの再建計画を一瞥しただけで400億円という多額の増資に踏み切る経済人がいるとすれば、それは狂気の沙汰と言うしかない。内容の具体性のなさや計画の実効性に対する説得性のなさには正直あきれて物が言えない。

ひとつ数字をあげてこの再建計画の実現性に具体的疑問を呈してみる。新銀行東京の公表された直近期の決算数字(平成19年9月中間決算)のなかに利回・利鞘という項目があるが、そのなかに資金運用調達利回差という数字がある。これはいわば銀行が有する総資産の運用収益率である。19年9月期(中間)の数字は0.34%と公表されている。

今回発表の再建計画のなかで平年度ベース(つまり巡航速度の平常年度)の運用資産は700億円と計画されている。また単年度黒字化を達成する平成23年度の総資産は1360億円となっている。上記の資金運用調達利回差0.34%を仮に適用して試算すれば、平年度の運用資産から産み出される利益は、700億円×0.34%の2億3800万円となる。また仮に総資産1360億円全部が運用できたとしてもそこから生まれる利益はわずかに4億6240億円という計算になる。また同再建計画のなかに今後の経費カット後の業務経費として7億円、営業経費として26億円(平成23年度)という数字が示されている。現状の運用利回差0.34%を前提とすれば、縮小均衡の再建計画の総資産からでる利益は2億円から5億円程度と考えるのが、常識的な算盤勘定である。それしか利益が出ないのに対し経費総額は33億円(平成23年度)となれば30億円弱の大赤字になるというのが、単純な算数の世界の答えである。

しかし提出された再建計画では平成23年度の当期純利益は8億円と計上されている。その計画を利回りという別の観点から検証すれば、8億円の利益計上に必要な資金運用調達利回差は、最も利益が出るケースの総資産1360億円をすべて運用できたと仮定すると3.01%という計算結果となる。現在の新銀行東京の実績利回差(0.34%)の約9倍という利鞘まで今後の営業努力で引き上げねばならぬことになる。巷間、収益力があると言われる三井住友銀行の平成19年9月期(中間)の資金運用調達利回差ですら、その水準は0.57%でしかない。その約5倍の収益力を今後の4年間で達成するというのである。絶対的金利水準がきわめて低位にある現状の金融環境のなかで、そもそも通常の銀行業において3%もの総運用利回差を前提としていることこそ、この再建計画の実現性に大きな疑問があるのだと指摘せざるを得ないのである。

民間会社の取締役会でこうした杜撰な再建計画を鵜呑みにし増資決議を行ったとすれば、仮に将来、この新銀行が破綻した場合、増資に賛成した取締役は全員、特別背任の罪に問われても不思議はない。今回のケースで言えば、万が一そうした事態に陥ったときにその責めを負うべきは、大株主の東京都、就中、そのトップたる都知事であり、また増資要請に賛成の一票を投じる都議会議員である。特別背任という提訴はできぬが、行政訴訟を起こすべき事案であることは論をまたない。因みに2005年6月に成立した新会社法の第960条は、「取締役等の特別背任罪」について「次に掲げる者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は株式会社に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、当該株式会社に財産上の損害を加えたときは、十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する」と定めている。

言うまでもなく増資に当てられる400億円は都民の税金である。都知事がたった5ページの再建計画でフィージビリティー(事業可能性)ありと確信をもつのであれば、この増資断行に際し、何も迷うことなくその信念の証として税金投入につき債務の「個人保証」を行なったらよい。都知事の言う通り再建が果たされるのであれば、400億円という税金が紙くずになることはない。要すれば、都知事が400億円という債務の保証履行を迫られる事態などありえないのだから、信念と税金投入の妥当性への確信に基づき堂々と個人保証を行なうと宣言したらよい。そこまでやれば、「総ての責任は司令官たる自分にある」という都知事のトップたる覚悟のほどに都民も敬意を表し、400億円もの税金投入にも一応の納得を示すのではないだろうか。

 

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