コキ、コキ ドライブ旅の2日目は浜名湖の龍潭寺を拝観したのち、一路、187km先にある下呂温泉を目指す。所要時間は約3時間の予定。

|羆道・恵那峡SA
中央道 恵那峡SA
途中、中央自動車道の恵那峡SAなどで休憩をとったりしながらののんびり旅で、日が短くなった11月、ちょうど日も落ちる頃、下呂温泉の街に入った。

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下呂温泉の高台にある湯之島館に到着
下呂温泉は室町時代の京都五山の僧・万里集九や徳川時代の儒学者の林羅山によって兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と並び「日本三名泉のひとつ」と紹介されている紛うことなき天下の名湯である。

湯之島館 露天風呂
湯之島館 露天風呂
だが、日本書紀や古事記という勅命による最古の正史や史書を紐解くと、有馬温湯(ありまのゆ)【摂津の有馬温泉=舒明天皇631638)】や紀温湯(きのゆ=牟婁(むろ)温湯)【紀伊の白浜温泉=有馬皇子・斉明天皇657658年】へ行幸した記述を認めることができるが、そこに草津・下呂温泉の名は顕れない。

また風土記のなかでは、出雲風土記・意宇郡に「神の湯(=玉造温泉)」が「男も女も老いたるも少(わか)きも或いは道路につらなり、或いは海中を洲に沿い、日に集い市をなし、繽粉(まが)いて燕楽(うたげ)(歌い乱れて宴をひらく)。・・・万の病ことごとく癒ゆ・・・故に神の湯という」と詳細な描写がされている。

玉造温泉 旅館松の湯
玉造温泉 旅館・松之湯
さらに伊予国風土記逸文「湯の郡」には、少彦名命が豊後の速見の湯(=別府温泉)を地下トンネルで伊予まで引き大国主命の病を治癒させた「湯の岡(=伊佐尓波神社 道後温泉)」の話が登場するなど、1300年ほど前の世に、既に現在でも著名な温泉地が知られていたことがわかる。

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道後温泉 湯の岡 伊佐爾波神社
そのなかに、冒頭の三名泉の下呂温泉と草津温泉の名が挙がっていないのは単純に記紀などが編纂された八世紀初頭にこの両泉がまだ開湯されていないか(事実下呂温泉は平安時代の発見、草津温泉は日本武尊が発見との伝誦があるものの資料での確認は鎌倉時代初頭)、または中央にその評判が届くほどの知名度がなかったものと想像される。

“騨川支流沿いの下呂温泉街
飛騨川支流沿いに下呂温泉街
さて、前置きはそれくらいにして、下呂温泉についてである。

下呂温泉の呼称であるが、この独特な名前は実は昭和初期からのもので、それまでは「湯之島」と呼ばれていたという。

⊇蕕瓩禿鯒慧(下呂温泉)を天下に紹介した万里集九の銅像
室町時代に下呂温泉を知らしめた万里集九
実際、「三名泉」の生みの親である万里集九や林羅山も当地を「飛州の湯島」、「飛騨の湯嶋」の名前で紹介している。

下呂温泉の名を広めた林羅山の銅像
江戸時代に紹介した林羅山の銅像
それがどうして「ゲロ」などという、ちょっと引いてしまう名前になったのか?ということだが、下呂市の公式観光サイトには、「『続日本紀』宝亀7年(西暦776年)10月の条に、「美濃国菅田駅(※(1))と飛騨国大野郡伴有(上留)駅(※(2))と相去ること74里、岩谷険深にして行程殊に遠し。其の中間に一駅を置き、名付けて下留(※(3))という」とあり、この下留(しものとまり)が、下留(げる)、下呂となったといわれています。」と、転訛説を紹介している。

(1) 美濃国菅田駅・・・現在の下呂市金山町菅田 

※(2) 飛騨国大野郡伴有駅・・・現在の萩原町上呂 

※(3) 下留駅・・・現在の下呂


そして飛騨地方の名誉のために、この地方ではいわゆる吐瀉物(としゃぶつ)のことは「げぼ」と呼ぶため、「ゲロ」に汚いといった語感は覚えないのだという。

さらに、飛騨川沿いに走る国道41号線を富山方面へ走ると、中呂、上呂という地名が途中の道路標示に認めることができる。


そのため、「呂」が何か土地の特性を表す言葉なのではないかと、調べてみたがよくわからなかった。

そこから「風呂」にも「呂」の漢字が充てられているが、「呂」に「豊かな湯の出る場所」といった語源でもないかと探してみたが、これもハズレで、結局、地名の由来は消化不良のままとなっている。


さて、当夜の宿は湯ノ島温泉の名を冠する昭和6年創業の「湯之島館」である。本館建物が登録有形文化財に指定されているなど、下呂温泉を今日の繁栄に導くきっかけとなった旅館である。

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湯之島館 本館
私たちが泊まったのはその本館3階建ての建物であったが、なるほど趣きはあるものの、後方に山の斜面に沿って増築されたコンクリート造りの建物は何の変哲もない普通の温泉ホテルであった。

下呂温泉の街並を部屋から見下ろす
部屋から下呂温泉の街を見下ろす
しかも、増築を重ねていったのか、館内の廊下は迷路のように廻らされ、特に大浴場への行きかえりに方向音痴の私が迷子になるのは必定であったものの、常にナビゲーターとして私を先導してくれる細君までが帰りに迷ってしまったというのだから、これは意図してつくられた迷路であったに違いないと思ったものである。

湯之島館 夕食
湯之島館の夕食
翌朝、下呂温泉の街並みというか、中心部分にある白鷺橋に立ち寄った。

部屋から紅葉と下呂温泉市街
お部屋から
そこに下呂温泉を世に知らしめた恩人たちの銅像が三体、建っている。

万里集九と林羅山は得心がいったのだが・・。

実は、もう一体、脇に座って記念写真が撮れるように配慮されたチャップリンの銅像があった。

チャップリンは1932年の初来日以来、4度も我が国を訪ねている。そのどこかで、この下呂温泉を訪れたのだと、さすがは天下の下呂温泉と夫婦してチャップリンとならんでにこやかに記念写真を撮った。

下呂温泉のチャップリン像
哀しげなチャップリン像
ところが帰京後、調べてみてビックリ!! 一度も訪れてはいないという。

ではなぜ、銅像がということだが、2001年に町おこしではないが、映画を語り合いながら温泉街を散策できるとよいとの観光協会の発案で、第一号の銅像設置の栄誉を授かったのが、チャップリンだったというのである。

しかし、その後その運動は尻すぼみとなり、2番目のブロンズ像が建てられることはなく、そのためか哀愁に満ちたチャップリン像が縁もゆかりもない飛騨の国にポツネンとして据え置かれているとは、清少納言ではないが、ホンマに「いとをかし」な風情ではあっ た。

そして古希を迎えた老夫婦が嬉々として記念写真を撮りあっている姿こそ、「いと可笑し」な光景であったに違いない。