彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

特殊指定廃止

大手メディアの「不都合な真実」=NHKインサイダー事件3

大手メディアの「不都合な真実」=NHKインサイダー事件

 

NHKは17日、「NHKが平成1938日午後3時に放送した外食産業のゼンショーが回転寿司チェーンのカッパ・クリエイトをグループ化するというニュースに関連して、職員3人が株のインサイダー取引を行った疑いがあるとして、証券取引等監視委員会(SESC)が昨日、任意の調査に入りました」で始まる「職員の株取引をめぐる証券取引等監視委員会の調査について」を橋本元一会長のコメントとともに発表した。

 

 報道局テレビニュース部制作記者岐阜放送局放送部記者、水戸放送局放送部ディレクターの職員3人がインサイダー疑惑でSESCの調査を受けており、うち二人がその事実を認めている「不都合な真実」を公にしたのである。

 

 ジャーナリズムによるインサイダー取引と言えば、つい2年前の20062月に日本経済新聞社の広告局社員が出稿前の法定広告情報をもとに株取引を行い、数千万円にのぼる利益を得た事件が思い起こされる。

 

 報道機関、ジャーナリズムだからこそ知り得た情報、国民に公表する前の情報を悪用した不祥事というより悪質な犯罪は、その組織のレーゾン・デートル(存在理由)そのものを根底から揺るがすものであり、NHKの事件は日本の報道機関の情報管理に対する認識の甘さ、そこに帰属する社員のコンプライアンス(法令遵守)の欠如が半端でないことを性懲りもなくまた示したものと言える。

 

 ついひと月前、参院外交防衛委員会で防衛省不祥事に関する集中審議が行われる最中、イージス艦中枢情報流出事件により海自の3等海佐が逮捕された。報道機関各社が防衛省の情報管理のずさんさを厳しく取り上げ、批判したことはわれわれの記憶に新しい。NHKもイージス艦のミサイル発射の映像を繰り返し流し、防衛省の情報管理体制のずさんさを批判した。国益の毀損に直結する軍事機密の漏えい自体が大きく非難され、その責任の取り方や情報管理体制のあり方が厳しく糾弾されること自体は至極、当然なことである。

 

 しかし今回のNHKのケースでは、ニュース原稿は報道番組に携わる職員5千人のみならず、ニュース制作関連の契約スタッフ2千数百人も放映前の原稿が閲覧可能だったという。このことは「情報管理」がずさんといったレベルではなく、「情報管理」という言語が情報媒体が中枢機能であるはずのNHKという組織の中にそもそもなかったという恐ろしい事実を伝えているのである。

 

 そんなジャーナリズム、いや公共放送が防衛省の情報漏洩事件を報じ、事の重大性を訴えていたかと思うと、正直、怒りの矛先をどこへ向けてよいのか気持ちの持って行き場がなく、やり切れぬ思いでいっぱいである。

 

 報道機関が報道の自由や表現の自由を言うのであれば、その根源にある「伝えるべき情報」の「管理」をことさらに徹底せねばならぬことは自明の理である。それなくしてジャーナリズムの存在はあり得ぬし、その存在理由などあるわけがない。

 

 日経新聞の社説においては「今回の出来事はNHKだけの問題ではない。日本経済新聞社でも06年、広告担当の社員による違法な株式取引が発覚した。報道機関として改めて自らの襟を正す機会としたい」と自社の過去の事件にわずかに触れているのみで、「報道機関は記者をはじめ、社員に対する法令順守を徹底する必要がある」という結語が白々しく聴こえてならない。

 

 日本新聞協会が特殊指定廃止という見直し議論の最中に発表した「新聞の特殊指定見直し表明に関する新聞協会の声明」(平成17112日)のなかで、特殊指定存続の大きな理由として、「新聞は民主主義の基礎である国民の知る権利に応え、公正な情報を提供するとともに、活字を通じて日本文化を保持するという社会的・公共的使命を果たしている」ことをあげている。

 

 「公正な情報」であるはずの情報を「わたくし」する企業風土にあるジャーナリズムが、「日本文化を保持するという社会的・公共的使命を果たしている」などとよくも言えたものである。

 

 ねつ造、盗作、インサイダー取引、職員によるわいせつ行為、カラ出張着服等々、最近の大手メディアの紊乱(びんらん)ぶりは目を覆うばかりである。健全なジャーナリズムが存在する土壌にこそ健全な民主主義が育つのである。大手メディアを牽制、チェックするPJなど草の根メディアの成長がいよいよ期待されるところである。

 

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スクープに見る大手ジャーナリズムの読者差別

 

新聞には「版建て」という記事の締め切り時間の違いによる紙面記号がある。紙面の欄外に13版とか14版と書かれているのがそうである。版数が小さい方が記事の締め切りが早い紙面づくりとなっていることを表わす。

 

朝日新聞社大阪本社整理部次長(当時)の河内哲嗣(かわちてつし)氏が平成17418日に関西学院大学で行なった「新聞と現代社会」という講義のなかで、そのことを「10版は午後10時半の締め切り」「13版の締め切りというのは午前0時前後です。14版になりますと午前2時前ぐらいです」と説明している。要は版の違いによって同じ新聞社であっても紙面に掲載される記事の項目や内容に異なる部分が出てくることになる。具体的に東京地区でいうと同一新聞社の紙面内容で、多摩地区の一部で宅配される新聞と23区内で宅配されるものは微妙に異なったり、場合によっては大きく異なることがありうると言うことである。

 

 時々刻々事態が変化してゆく事件報道などは、記事掲載時点でのリアルタイムな情報を載せるため、遅い版の方がより情報量が多くなり、その説明や解説記事もより詳細となることが多い。そうした場合は報道の迅速性に照らしてみても、版により記事内容が異なることに異論はない。読者に少しでも早く情報を知らせるという適時性の原則に適っているからである。

 

しかしスクープ記事で多く見られるケースだが、企業の合併報道など12版で報道が可能である状態にもかかわらず、スクープを他社に気取られることを嫌って敢えて14版の最終版まで記事掲載を意図的に延ばすケースがある。一社のみが朝刊一面トップをそのスクープ、特ダネで飾ることは記者冥利につきることであろう。実際に日本新聞協会は、毎年、スクープと呼ばれる記事のなかで一年間のうち最も顕著な功績をあげた新聞人に「新聞協会賞」という伝統ある賞を与え、そのジャーナリストの功績を長く称えることになる。編集部門のなかのニュース部門受賞作を最近の3年間で見ると、06年度「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感」(日経)、05年度「紀宮さま、婚約内定」(朝日)、04年度「UFJ、三菱東京と統合へ」(日経)とその赫々(かっかく)たるヘッドラインから、伝統の重みとジャーナリストのプライドの充溢がわかろうというものである。

 

 早刷りや最終版毎の宅配エリアの違いは新聞社毎に工場の立地や数によって異なるが、おおまかに東京本社管轄を例に取ると、関東圏で言えば12版は東京から遠い関東地方、13版は近い首都圏、14版(最終版)は東京23区と多摩地区の一部や横浜市・川崎市の一部などとなっている。自宅で読んできたはずの一面記事が、会社に行ってまったく異なっていた、大特ダネを会社で知ったという類の経験を持つ人々が結構多いのではなかろうか。つまり最終版を待ってスクープを掲載することは、関東圏を例にとれば結果として、「東京23区と多摩地区の一部や横浜市・川崎市の一部」の購読者のみにその新聞社は意図的に情報優位性を与えていることになる。

 

昨年3月に日本新聞協会が世間に対して表明した「新聞特殊指定の堅持を求める特別決議」において、新聞の特殊指定廃止は再販制度を骨抜きにするとし、その堅持すべき理由に「販売店の価格競争は配達区域を混乱させ、戸別配達網を崩壊に向かわせる。その結果、多様な新聞を選択できるという読者・国民の機会均等を失わせることにつながる」と訴えた。これを読み替えれば同一紙での情報提供は読者・国民に「機会均等」になされるということのはずである。

 

 ところが、この「読者・国民の機会均等を失わせることにつながる」行為を新聞社自らが「スクープ記事」という情報提供においては確信犯的に行なっていることになる。ジャーナリズムいやジャーナリストの使命とは、つかんだ事実をいち早く正確に読者・国民に伝えることが大原則のはずである。「国民の知る権利」を錦の御旗として公権力や不祥事を行なった企業、犯罪被疑者等に立ち向かっていく姿勢は、あるときは力強く頼もしく見える。しかしその一方で、知る権利を声高に叫び、必要以上の取材攻勢をかけ人民裁判のような報道姿勢を見せることも現実である。そのときはある種ペンという権力を振りかざすタイラントのように見えることがある。

 

 自己の既得権益擁護に弄する「機会均等」の理屈は、スクープというジャーナリストとしての「功名が辻」にはまったく援用されない。いや「機会不均等」を敢えて行なうことは、ジャーナリストとしての良心を後ろに置き忘れた背信行為であるとすらわたしには思える。ましてや「特別決議」でいう「同一紙同一価格」のスローガンを掲げながら、スクープという意図的な情報格差を生じさせる行為はあきらかな読者差別であり、そのスローガンが自己権益擁護のみを目的としていることをはしなくもさらけ出していると言わざるを得ない。

 

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しつこく特殊指定廃止問題4

「しつこく特殊指定廃止問題」

 

 25日の毎日ニュースで、また自民党の中川秀直政調会長が、竹島公取委委員長に「特殊指定維持」について要請したと報じられていた。24日に党本部で竹島委員長と会談し、「国会が終わったら(公取委が指定解除を)抜き打ち的にやると、新聞業界は心配している。国会議員もこれだけ反対していることを受け止めて欲しい」と、指定維持を要請し、これに対し竹島委員長は「」国会が終わってすぐにやることは考えていない」としたが、「筋が通らない」と述べ、見直しの方針に変わりがないと応えたという。

 

 会談と報じるが、要は中川政調会長に呼び出しを食らい、「特殊指定を継続せよ」と政治的圧力をかけられたわけである。この圧力に屈せずに、「公取委の方針が変わらない」と委員長が応じたことは、至極当然のことであると評価したいし、その勇気と見識に対しは深い敬意の念を表したい。

 

しかし、この報道自体、一体、何を目的とし、そして問題はないのか、大きな疑問を感じざるをえない。これは世に言う「圧力団体からの陳情」をその業界から利益を享受する政治家が、その団体の利益を毀損しようとしているものに「政治的圧力」をかけていますというあまりにも明け透けで、破廉恥な報道なのではないか。「社会の公器」と自らを呼んで憚らぬメディアが、自身の利益擁護のためにその「公器」たる紙面を通じて行なう行為。これを破廉恥行為と呼ばずして、何を破廉恥と表現すればよいのだろうか、わたしは残念ながらその言葉を探し出すことができない。

 

一方、「特殊指定」については、中川秀直政調会長に限らず、与野党の政治家がこぞって新聞業界側に立った意見を述べているように見える。志位和夫日本共産党委員長、福島みずほ社民党委員長然りである。おそらく、特殊指定排除に賛成する議員もいると信ずるが、新聞業界を敵に回すのは得策でないとの判断から、沈黙を守っているのか、そうした発言をしても新聞業界が意図的に報道を控えているのか、何しろ国民の目には、全政治家が「特殊指定排除」はおかしいのだと声を揃えている、独断専行の公取委委員長はけしからぬとしか見えてこない。そう映るようにしか報道がなされていないのではないか。与野党こぞって同じように声をあげるのが、わたしには不思議に思えてならないのである。「野党の中の野党」と胸を反らす日本共産党までも、自民党と同じことを口にする。不思議だ!

 

これこそ、自らに利益を誘導することを目的とした報道姿勢なのではないか。ネット上で展開されている「特殊指定排除」に賛同する声や「再販制度廃止」を妥当な判断という国民の声が溢れていることを新聞は決して報じない。新聞業界の姑息な歩道姿勢に対し厳しい声が充ちていることを紙面で語ろうとしない。これが「社会の公器」である、「事実を知らしめる使命を帯びた」と自らを称するメディアの客観報道なのであろうか。「噴飯ものである」と、わたしは大声で一喝するしかない。

 

他人を評する者は、まず当然であるが、自らを常に客観的に分析・評価するという厳しい姿勢であらねばならぬはずである。そうでなければ、どんな立派なことを言おうが、どんな正しいことを言おうが、誰もその者の言葉に耳を貸さないし、向けようともしない。自分が出来ぬことを他人に求めるほど、この国の民は破廉恥、厚顔無恥ではないからである。

特殊指定問題に見る新聞社の手前勝手3

「特殊指定問題に見る新聞社の手前勝手」

 

 以下の毎日新聞の五月一日付けの社説を読んで欲しい。この手前勝手さに呆然となってしまった。わたしはこの新聞を購読していないので、From Cambridge, MA (http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/9844940)さんのブログを読んでこのことを知った。

 

(毎日新聞の五月一日付けの社説)

 

社説:特殊指定廃止 公取委員長の独断で決めるな

 「独立した行政組織のトップとして、広く国民の意見に耳を傾ける姿勢に欠けるのではないか。新聞の「特殊指定」を廃止しようとしている公正取引委員会の竹島一彦委員長のことである。

 特殊指定の廃止は新聞の宅配制度を崩しかねないと、新聞業界だけでなく、政界、財界、言論界などから反対の声が高まっている。しかし、竹島委員長はインタビューに「戸別配達が大変だとか、知る権利のために必要だとか、ピントのずれた、ワンパターンの話ばかり出てくる」と語っている。

 3月27日には、学識経験者や財界人らが意見交換する独占禁止懇話会の席で「皆さん完全にマインドコントロールにかかっている。戸別配達のためには特殊指定が必要だという議論をうのみにしている」とまで言い切った。公的な場で「マインドコントロール」を持ち出して反対論者を非難するのはあまりにも礼節を欠き、不穏当だ。

 特殊指定は独占禁止法に基づき、公取委が「不公正な取引方法」に当たるとして、特定の事業分野の取引方法を告示によって禁じる制度だ。新聞の場合、1955年の告示で、新聞社や新聞販売店は地域や販売相手にかかわらず値引き販売することが禁止された。99年の告示見直しで、新聞社が教材用や大量一括購読者向けなどに値引きすることは認められた。

 独禁法は新聞社が販売店に定価販売を求めることができる「再販制度」も認めている。特殊指定と再販制度の双方によって、新聞は原則として同一紙なら全国どこでも同じ価格で宅配されるシステムが守られてきた。

 竹島委員長の考えはこうだ。独禁法は価格競争を促進するための法律なのに、特殊指定では値引きすれば独禁法違反になり、おかしい。新聞には再販制度があり、特殊指定がなくなっても宅配がなくなることはない−−。この50年間、特殊指定の法的根拠がないとの理由で公取委が撤廃を言い出したのは初めてだ。委員長が就任後自ら考えつき、見直しを指示したことを認めている。

 しかしこの間、特殊指定制度に不都合が生じたことはなく、7年前の見直し以降の環境にも変化がないことは公取委も認めている。政策は市民生活に支障が出た場合などには当然変更すべきだが、そうでない時の見直しには大きなリスクが伴う。再販制度は値引きそのものを禁じてはいないため、特殊指定の廃止で販売店間の値引き競争が始まり、国民に必要な情報をくまなく提供する宅配制度が揺らぐことは予想がつくはずだ。

 結局、竹島委員長は独禁法という狭い枠の中だけで判断し、国民の知る権利に応え、民主主義を支えてきた新聞の公共性への理解が足りないように映る。

 特殊指定廃止は公取委の判断だけでできるため、反対する与党の一部が廃止には国会議決を必要とする議員立法の検討に着手する異例の事態となっている。先人たちの知恵で築かれてきた日本の活字文化が、委員長の独断で壊されるようなことになっては困る。」

 

 以上の社説を目にして、わたしは今回もとうとう新聞社はこの最後の手段に討って出たかと思った。「新聞の公共性」と謳うのであれば、その社論であるべき「社説」には客観性と国民の良識を是非、反映させて欲しいと願うのはわたしだけであろうか。この問題については、三月二十日付けのブログ「新聞の独禁法特殊指定と再販制度の時代錯誤」に詳しく述べています。(http://app.blog.livedoor.jp/hero1945/tb.cgi/50069199



自民党丹羽・古賀派の新聞「特殊指定撤廃反対」の不見識3

自民党の「特殊指定撤廃反対」の余りの不見識

 『四月六日、自民党丹羽・古賀派の総会で、新聞の全国同一価格での販売などを定めた「特殊指定」の撤廃に反対することを決めた。

 代表の丹羽雄哉・元厚相は総会で、「どの地域においても、(同じ新聞ならば)同一価格ということが今の新聞業界を支えており、これは再販売価格維持(再販)制度と特殊指定制度の二重の縛りになっている。これ(特殊指定)が崩れていくと、宅配制度に影響する」と述べた。さらに、「竹島一彦・公正取引委員会委員長は強気だそうなので、非常に予断を許さない」との懸念を示した。また、社民党は同日、特殊指定に関する公取委と日本新聞協会からの意見聴取を十一日の政審全体会議で行なうことを決めた。』 (4.6 22:44読売新聞)

 この特殊指定問題については撤廃すべきとの意見を三月二十日付けブログhttp://app.blog.livedoor.jp/hero1945/tb.cgi/50069199で述べたが、冒頭の記事を知り、私は口をあんぐりと開けざるを得なかった。この丹羽雄哉代表の認識は一体、どこから出てくるのか。どの地域でも同一価格でないと宅配制度はなくなると、云っているのである。

 もし、新聞が同一価格の宅配制度を維持したければ、つまり新聞は公共財であるというのなら、電力小売の自由化と同じ問題になる。つまり、ユニバーサルサービス(普遍的・公平なサービスの提供)をどうするかの議論をすればよい。

 私は新聞は公共財などとこれまで思ったことはなかったし、公共財であると思って新聞業界が記事を書いているとは思ってもいない。やれ、特ダネだの、他社を出し抜いただのと自分たちの世界の価値観だけで動いている業界を私は決して公共財を提供する事業体などと思わない。でなければ、記事の捏造、社内で色々なケースを検討しているだけで、そのひとつを抜き出し、「A社が○○と合併」と云った記事が一面トップなどに踊るはずはない。公共財を扱っているという意識であれば、事実だけを伝えるべきであり、もし検討中であれば全ての検討中のものは、常に新聞紙上を飾らねばならぬ。読者は一面トップで報じられたニュースでその後、何の音沙汰・続報もない経験を何度も持ったことがあると思う。また、その渦中に放り込まれ迷惑をかけられた会社人も多いと思う。

 こうした新聞業界は、今、「特殊指定」の撤廃問題で、それを阻止しようと横一線で論陣を張っている。常々、市場原理を振りかざし、経済界にその刃を衝き続けてきた業界が、「自分だけは違う」と叫んでいるのである。まさに笑止である。

 丹羽・古賀派総会の「新聞の特殊指定撤廃の廃止」という、早口言葉で舌がもつれそうなことを真面目に決めたというのだが、新聞業界に何か弱みでもあるのか、何かこの業界に貸しをつくると得だとの判断でも働いたのかとでも、邪推したくなるほど、彼らの不見識さに愛想が尽きた。

 

 

新聞は日本語文化の伝承者4

新聞は日本語の貴重なる伝承者

――新聞への投稿を終えて

 

 今回、依頼を受けて新聞に五回連載の投稿文を載せた。これまで常々、読者としての立場から新聞記事を読んでいたわけだが、今回は書く側から新聞に使われる日本語のあり方について不自由さとある種の不条理を実感し、そして大きな問題意識を持った。

新聞・通信社は使用する漢字を「基本的に常用漢字」の範囲内としている。常用漢字は昭和56101日に内閣訓令第一号で告示された「常用漢字表」の1945字を云うが、それを基本として「日本新聞協会用語懇談会」で例外規定などを設けたうえで、各社独自に用字・用語集を作成し、それらに準拠して記事を書いているという。

 

 こんな詳しい事情は今回の字数制限のある原稿を新聞社が校正し、その修正の多さに愕然としたからである。日頃、何気なく使っている漢字が使えない。初めて知った制限漢字の多さに呆れとともに、日本語文化の伝承は一体どうなるのかとの危惧を抱くようになった。私の場合、八百字ほどの文章が毎回の執筆量であった。決して充分な分量ではない。だから書きたいこと、自分がどうしても伝えたい熱い思いを原稿用紙二枚程度に収めるには、適切な意味を含んだ表意文字である漢字、それも正鵠を得た漢字を使用することは真に重要かつ有効な意思表現の手段であった。

 

 これまでも読者の立場から新聞記事を読んでいて、「やみ夜」のような「混ぜ書き」に戸惑うことが度々あったし、「歌舞き」などに至っては噴飯ものの表記であった。しかし今回、自分が書く側に立つとこの不自由さには辟易したし、折角、自分の気持ちを伝えるのに適した言葉を探し当てたのに、その漢字が使えずひらがなに書き直さなければならない時の口惜しさはなかった。そして連載を重ねるうちに、徐々に、日本語という文化の伝承という極めて重要な疑問が湧き上がって来たのである。

 

 云うまでもなく新聞は文字によって読者に情報を伝達するメディアである。だからこそ言葉の持つ特性なり、その効果、重みを最もよく理解し、強烈な問題意識も持っているはずである。「日本新聞協会用語懇談会」という仰々しい集まりがあることこそ、そのことを如実に表わしている。

 だのに・・・と、私は今回の投稿という行為で思わざるを得なかった、いや、思いを強くした。今、真に新聞の「特殊指定廃止」「再販制度廃止」といった問題が公取委員会で取り上げられ、これから国民の目の前で本格的な議論がなされていくことになると思う。その時に、新聞社が云う文化の普及という機能、使命に考えを至す時、彼らがそのことに対し、これまで地道な努力、不断の挑戦を続けてきたと云えるのか。私はその一点で首を傾げざるを得ない。今度の「この頃→このころ」と、こんな漢字もひらがなにしなければならぬことを知った時に、これからの新聞社のやっていかなければならぬ使命のひとつは何かに得心がいった気がした。

 

 言語、書き言葉はその民族のアイデンティティーそのものである。だからこそ先祖から受け継ぎ、美しい日本語を子孫に伝えていくべきものであると思っている。その役割の重要な一翼を担っているのが、国民が日常生活のなかで文字というものを目にする新聞という媒体ではないのかと思ったのである。そして、その意味で新聞は「再販問題」などよりもっと高次元の意味において「存在せねばならぬ」媒体、メディアであると考えるのである。常用漢字などというお役所の決めた「国民は愚かである」という傲慢な意識から決められた常用漢字の使用を国民に強制することで「国家そのものが伝統を絶えさせる」という世にも不可思議な愚行に組することなく、そうした愚かな権力と対峙して日本語の伝承者としての役割を強く自覚し、その時代を代表する高邁な使者として目覚めて欲しいと強く思った次第である。

 

 

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