先の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地めぐり湯河原・真鶴編につづき、その翌週、日を改めて二泊三日の「鎌倉殿の13人」ゆかりの地めぐり第二弾を決行。
この旅の主たる目的は伊豆高原の別荘で月のほぼ半分近くを過ごす旧知のご夫妻を訪ねるものであった。
好奇心旺盛といおうか、貧乏性の古希・古希夫婦である。
今日、伊豆といえばもちろん「鎌倉殿の13人」。
ということで頼朝や鎌倉執権の北条氏ゆかりの史蹟巡りもかねてのんびり参ろうと計画を立てた。
そこで、一日目は伊豆長岡温泉の「香湯楼(こうゆろう)井川」を予約した。
その故、「島」のつく地名も多く残っているのだという。
もちろん頼朝もそうした中洲のひとつに流人として囲われていたのだと思う。
その蛭ケ小島の位置は正確には分かっていないとのことだが、江戸時代の郷土史家・秋山富南が推定した地(現在の蛭ケ島公園)を韮山代官の江川英毅が購入し、「蛭ヶ小島」の碑を建立させたのが始まりだという。
また、平成15年に富士山を望んで立つ頼朝・政子の「蛭が島の夫婦」像が建立されている。
そして臥薪嘗胆の末か、それともそんな大望などなくただ運命の糸に引き寄せられるようにしてか、歴史の大舞台にその身をさらすことになり、日本一の男となった。
蛭ケ小島はそんなことを想起させる悠揚たる風のわたる宏闊な土地であった。
そこから「鎌倉殿の13人」とは無縁であるが、頼朝が興した武家政権の終焉の頃、攘夷擾乱の幕末に外敵排除のため大砲製造を目的として建造された世界遺産明治日本の産業革命遺産・韮山反射炉が至近であったので見学した。
いわば武士の時代という大河の流れの入口と出口がここ伊豆半島の根っこ近くにあるというのも、不思議な気がしたものである。
そこから標高100mほどの小さな山、守山の北西側の谷戸(やと)にある北条氏邸跡へと向かった。
30年ほど前に発掘調査され、この地が平安時代から住みついた北条一族の館跡であることが確認されたという。
負けてもともと頼朝の首を差し出し、尻尾を巻いて一族もろとももっと北方へと逃げ出せばよいくらいに思えるほどの貧相な地味(ちみ)であった。
そんな田舎者の北条氏がパトロンとなって築いた鎌倉文化が質実剛健であったというのも、このやぼったい景観を目にして妙に得心したところである。
その守山の東側の麓に北条時政が造営した願成就院がある。
簡素で気負いのない山門をくぐると少し右に屈曲した石畳の先に大御堂が見える。
その大御堂には、「鎌倉殿の13人」で仏師・運慶が掘り出す場面が描かれていた阿弥陀如来坐像が時を超えて現在国宝に指定され、祀られている。
薄暗い堂内で対面するご本尊は全体的にふくよかなお姿で、穏やかなお顔立ちをされていた。
大御堂に至る参道途中、大きな石燈籠手前の細道を左に入ると、茅葺の本堂が建っている。ただし内部の拝観はできない。
角の取れた細身の五重塔のようなお墓である。その質朴な印象は大河ドラマで描かれる権謀術数を弄する人物の墓とはどうにもそぐわなかった。
でっぷりとした短躯の五輪塔のほうが、そうした奸智に長けた男には似つかわしい気がした。坂東彌十郎さん、ゴメン!
そして最後に控えしが、「鎌倉殿の13人」の主役、小栗旬演じる北条義時が創建した北條寺である。
お寺にまさか世俗的な定休日なるものがあるとは正直驚いた。
だが大河ドラマの主役ともなるとそう簡単にはお会いできぬものだと妙に納得したところでもあった。
願成就院にくらべると小ぶりのお寺で、本堂もコンクリート造りになっていた。
本堂左手に広がる墓地を抜けると小四郎山と呼ばれる小高い丘がある。
その丘を斜面に沿って登って数分、頂上の平坦地に北条義時夫妻の墓が立っている。
二基の墓石の右手が義時、左手が怪演の光る菊地凛子扮する“のえ(伊賀の方)”のお墓だという。
新垣結衣演ずる八重姫ではなくて残念・・・って・・・菊池さんに失礼か。
伊賀の方の墓が現代まで義時に寄り添うように立ち続け、大切に供養されてきた丘上の様子からは、藤原定家の「明月記」に云う「伊賀の方が義時に毒を盛った」(安貞元年6月11日条)とのおぞましい風説は俄かに信じ
がたい。
今後の三谷幸喜氏のシナリオは如何に? 興味は尽きない。
そんなことを考えながら小四郎山から狩野川の先、蛭ケ小島の方向を見渡した。