「光市母子殺害事件の最高裁自判回避に不満」

 

 99年に光市で起きた母子殺害事件に、最高裁第三小法廷(浜田邦夫裁判長)は20日、無期懲役とした二審・広島高裁判決を破棄し、審理を差し戻す判決を下した。浜田裁判長(退官)と上田豊三、藤田宙靖、堀籠幸男の各裁判官の4人全員一致による結論であったということだ。

 

 法曹界では現在、裁判の迅速化・裁判員制度の導入(h21.5までに施行)など平成11年7月に内閣に「司法制度改革審議会」が設置されて以降、司法制度改革は「法制面の整備」においては着々と進められていると言ってよい。

 

95年に起きた凶悪なオームサリン事件において、首謀者である松本智津夫被告の一審死刑判決(04.2)まで9年もの歳月を費やし、あまりにも悠長な裁判審議に世論の批判が集中した。そうした、国民の苛立ちが改革の後押しをしたといってよい。もちろん、冤罪(えんざい)を避けるために慎重な証拠固めや証人からの証言の聴取などやるべきことをやるのは当然であるが、それこそ限度、世間の常識というものがあってもよいのではなかろうか。

 

 そのバランス感覚からいって、無差別テロ事件であることがはっきりしているオーム裁判に、何故、これほどの公判回数が必要なのか、審議時間の長さは異様であり、無意味である。

 

司法にズブの素人であるわたしが、あまり無責任なことを言ってはいけないが、「世間の常識」というものは存外、庶民の公正なバランス感覚によって構成されていると思う。国政選挙での与党圧勝の次は、野党が議席数を回復するといった意図せざる平衡感覚が今、現在の国民には存在しているように思われる。

 

 今回、光市の、当時18歳1ヶ月であった少年による強姦致死という痛ましい事件において、最高裁判決は、やはり、世間の常識からいって「そこまで(元少年の責任は誠に重大で、特に酌むべき事情がない限り死刑を選択するほかない)言うのなら、何故、審理差し戻しなのか、何故、最高裁が自判(じはん)しないのか」と、首を捻らざるを得ない。TVなどでは、一応、高裁で「更生の可能性についての審議を深める必要」ということだといった解説がなされているが、最高裁は「(二審判決の)量刑(無期懲役)は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」とまで言い切ったのである。世間の常識であれば、自判で「死刑」の判決が下されるのが自然であると思える。

もう一方で鋭意、進められている「裁判の迅速化」の観点から、それは当然なされねばならぬことだと考える。最高裁自らがその範を垂れずして、何が司法改革か。審理差し戻しであれば、逆に「量刑(無期懲役)は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」とまで言い切れない何かが、それまでの公判のなかに残されている、審議不充分であると判断したのだと、世間のわたしたちは考えてしまうのだが、実際はどうなのであろうか。

 

 今回の最高裁の自判回避には、最高裁は「庶民の感情に媚を売り、だが、審議はどうも不充分である、もう少し進めなさい。自ら手は下したくない」と、その姿勢は、どう考えても責任回避としか見えてこない。法の番人の頂点にある最高裁自らがそうしたポピュリズムに陥っているとしたら・・・、この国の将来ははなはだしく暗い。本村洋氏の「ここまで7年。これから高裁へ戻され、また上告して最高裁へ。どれだけの歳月が流れるのか」「無期懲役を最高裁が妥当と思わないのなら、差し戻しでなく自ら死刑判決を下してほしかった」との述懐の言葉をわれわれは極めて重く受け止めねばならぬ。大きな不満の残る判決であった。

 

司法改革―市民のための司法をめざして