松代大橋手前を右に入ってすぐに武田信繁の墓所である典厩寺がある。八幡原で兄を守るために率先、討ち死にした信玄の弟、典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)。信義を守り、智勇に秀でた戦国武将に、現代の男性にはない魅力を感じるのだろうか。小さなお寺であるが、最近は「歴女」の拝観客が増えているそうである。
真田昌幸(松代初代藩主信之の父)が次男幸村(通称)を信繁と名づけたのは、この信繁の智勇と忠節を愛したためと伝わる。そうしたこともあり、典厩寺は真田家の手厚い庇護を受けている。
初代藩主信之が「鶴巣寺」といっていたこの寺を「典厩寺」と改称、山門は三代藩主幸道の霊廟の門を移築したと伝わる。また、八代藩主幸貫が川中島の戦い三百年を記念して閻魔堂を建て(1860年)、甲越戦没者の霊を弔うなど真田家との縁は深い。
なお、閻魔堂の閻魔大王像は本邦一の大きさを誇るので有名である。その他境内には信繁の首をここの水で洗ったという「首清め井戸」や伊東祐亨(すけゆき)元帥海軍大将の揮毫による「懐古」の石碑が合戦三百五十年を記念して、建立されている。石碑の両脇に甲・越の自然石がそっと置かれていたのには、歴史という大河の前で人間の営みがいかに小さいものかを考えずにいられなかった。
首清め井戸
伊東祐亨元帥揮毫の「懐古の石碑」
懐古の石碑の向かって左裾に躑躅ケ崎館の愛石
右裾に春日山城の城石
山門脇の六地蔵
典厩寺を後にして、旅の残り時間は少なくなっていたが、そこから10分ほどで妻女山の展望台に行けるというので、運転手さんにお願いをし、合戦模様を山上から俯瞰することにした。
妻女山の展望台付近は赤坂山と呼ばれるが、あまりに狭過ぎて、このあたりに上杉勢一万一千の軍勢がいたのか、はなはだ疑問に感じた。後の調べで実際にはこの展望台の上の方が妻女山の頂上にあたり、赤坂山には一部の軍勢が陣を布いていたもようで、謙信の本軍は妻女山中央付近の「陣場平」と呼ばれる平地に陣取っていたとのこと。それで、ようやく疑問が氷解した次第である。
妻女山の登り口には謙信が槍の尻で泉を穿ったという「槍尻之泉」があった。展望台の北西6kmほどに武田信玄が海津城と挟み撃ちにする形で陣を構えた茶臼山が見える。そして東に目を転じると、3kmほどの距離なのだが海津城(松代城)が見える。少し霞んでいたためだろうか城から逆に妻女山を眺めたのとは異なり、思いのほか遠くに見えて、武田軍の奇襲を見破ったという炊煙が立ち昇るのが本当に見えたのかしらなどと、まるで自分が名将謙信になったかのようにじっと目を凝らした。
自動車道カーブした辺りが海津城跡
正面手前の低い山が当初、信玄が陣を布いた茶臼山
写真正面の千曲川の向こうが八幡原の激戦地
手前左の山裾の裏側に雨宮の渡し
謙信の槍尻之泉
激戦地となった八幡原は北東に千曲川を越えたあたりに展開している。あの一帯に三万の軍勢がひしめき、そのなかを単騎、駆け抜けていった謙信の颯爽とした武者姿を想い、しばし歴史物語の世界に酔い痴れた。