彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

武甕槌神

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ

左手に見えたのは、鹿島神宮の社殿であった。参道右手に北向きに建っているのだ。

拝殿と楼門配置が90度
手前参道左に拝殿、奥の白いシートに覆われる本殿・向こうが通って来た楼門

社殿は手前の拝殿から幣殿・石の間・本殿と北から順に奥(南)へと続いて建つ。

拝殿の後ろ、幣殿が見える
社殿横から。左より拝殿・幣殿・白いシートの中、石の間・本殿とある

しかし、ここも香取神宮同様、来年の“式年大祭御船祭”へ向けた屋根の葺き替え工事が進行中で、石の間と本殿は白いシートの中に身を隠す。

拝殿の奥、葺き替え中の本殿は覆われていた
しっかりシートの中です

本殿はだいたい参道の突当りに鎮座するものだが、ここは参道の脇、直角に曲がって拝殿で参拝する。

拝殿正面より
参道を右に90度曲がると、鳥居と拝殿が正面に見える

何か奇妙である。この謎はこれから訪れる奥宮、御手洗池、要石の項でわたしの考えを述べることにする(鹿島神宮のパワースポット“荘厳な霊気に満ちた奥宮”・“清浄の地御手洗池”・“武甕槌神の憑代 要石”を参照)。

拝殿で祈祷中です
拝殿内で祈祷が行われていた

さらに不思議なのが本殿が北向きであること。しかも御神座は本殿内南西隅に置かれ、東を向いているのだという。われわれはご祭神“武甕槌神”の横顔に向かい参拝する形となる。

拝殿
拝殿を西側より見る

当社に伝わる“当社列伝記”に次のごとく記されている(鹿島神宮元宮司東実著・学生社刊「鹿島神宮」より)。

「開かずの御殿と曰うは、奉拝殿の傍に御座す、是則ち正御殿なり、北向に御座す、本朝の神社多しといえども、北方に向いて立ち給う社は稀なり、鬼門降伏、東征静謐の鎮守にや、当社御神殿の霊法かくの如く、社は北に向ける、其のご御身躰は正しく東に向い安置奉る、内陣の列法なり」

実は本殿内の御神座のこの奇妙な配置は出雲大社に似ている。出雲大社は拝殿、八足門、楼門、御本殿と直線状に配置され、すべて南面する。その御本殿の御神座は本殿北東隅にあって西を向かれているという。
方角は異なるが、拝殿で参拝する者たちに、御祭神は横顔を向けしかも本殿内の一番奥隅に鎮座されるという形式は同一である。

出雲大社本殿
出雲大社本殿

國譲りをされた大国主命が祀られる出雲大社とその國譲りをさせた武甕槌神が祀られる鹿島神宮。方向は違えど同じ形式で祀られていることはいったい何を意味し、何を語らんとしているのか。謎は深まるばかりであり、興味は尽きることはない。

その鹿島神宮社殿の斜め対面に仮殿がある。

仮殿

その間に何故か、高天原の悪神である“天香香背男(アマノカカセオ)”を誅した“建葉槌命(タケハツチノミコト)”を祭神とする摂社・高房社が鎮座する。言ってみれば本殿の真正面であり、参道の中央に坐すとも見える(“続・経津主神と武甕槌神の謎=常陸風土記と日本書紀から読み解く”を参照)。

摂社・高房社と三つ穴燈籠
摂社・高房社と三つ穴石燈籠

次に宝物館を見る。

宝物館

国宝の“直刀”を見ようと立ち寄ったが、見事、大神社展へ貸出中!!

平成館館内
東京国立博物館平成館での”大神社展”

長さが271cmにおよぶという“ふつのみたまのつるぎ”である。宝物館には長さ、重さも同一の模造品があり、それを手で抱えて見たが、もちろん、持ち上げるだけで精一杯で、振り回すなんてとんでもないといった大刀であった。

国宝・海獣葡萄鏡
海獣葡萄鏡・復刻品

これも香取神宮の海獣葡萄鏡と一緒で、後日、東京国立博物館で拝見することとなったが、やはり実物は人出の多い博物館の中でもシンと鎮まり、その刃身から撥される神気に心を浄められた。

さて、奥参道に入ると途端に参道脇に広がる樹叢の奥ゆきが深みをます。

原生林の中を縫う参道

古木特有の捻じ曲がった枝幹は上空を縦横無人に覆い、参道に影を落とす。その樹間を縫うように数条の光が射し込んで来る。

古木

その光と陰が織りなす意匠は武甕槌神の黙示のようでもあり、歩みとともに移ろうそのフォルムが、わたしに終始、何かを語りかけているように感じられた。

光

そうした神秘的空間を歩む途中、左手に開けた場所があった。鹿島の鹿苑である。

参道より鹿苑を

春日大社の社伝によれば、称徳天皇の767年、平城京鎮護のため鹿島神宮の武甕槌神を春日大社の祭神として勧請したが、この時、武甕槌神は白鹿に乗ってひと月かけて御蓋山(三笠山)に来られたのだという。

鹿苑
この鹿たちのご先祖が奈良の鹿のご先祖にあたる・・・

つまり春日大社の鹿は鹿島の鹿の末裔ということになり、この云い伝えが両神社において、鹿が神鹿として敬われ、神の使いとされる由縁でもある。

春日大社の鹿の手水舎
春日大社・鹿の手水処

その鹿苑の一角に中臣鎌足伝承に由来する“鎌足桜”が咲いていた。

鎌足桜 鎌足桜花弁
鎌足桜が咲いていました

中臣鎌足は常陸の生まれといわれ、いまの鎌足神社(鹿嶋市宮中3354番)がある辺りがその出生地とされる。出生地常陸説の根拠のひとつとなっている藤原氏の栄華を描いた“大鏡”に、「鎌足のおとど、む(生)まれ給へるは、常陸国なれば、かしこのかしま(鹿島)といふところに、氏の御神をすましめたてまつり給ひて」とある。

さらにこの一隅に、りっぱな“さざれ石”が置かれているので、これもお見逃しなく。

見事なさざれ石

ということで、いよいよ、ここから奥宮、要石、御手洗池と鹿島神宮のパワースポットゾーンへと足を踏み入れてゆくことになる。以下、それぞれ別稿を置くので、それを参照されたい。

香取神宮・パワースポットの凸型“要石(かなめいし)”

香取神宮の要石は、地上に顕れた部分は径が3、40cmほどの楕円形の円味を帯びた凸型をしている。

一円玉と要石
一円玉と凸型要石

香取神宮の聖地たる奥宮へ向かう途中に、護国神社の少し奥に石柱に守られ隠れるように鎮まっている。

要石から護国神社を
要石から護国神社を望む
石柱の中に要石

折しも、頭上から樹間をぬけた陽光がしずかに舞い降り、静寂の地はさらに息をひそめている。

要石に差込む光芒

静謐とはまさにこれを言うのであろう。地に落ちた日差しに濾過されたかのように身が清められ、この地が霊気を充溢させていることは、黙って佇んでいるだけでわかる。


さて、「香取神宮少史」は“要石”について次のように紹介している。


「古傳に云ふ、往古、香取・鹿島二柱の大神、天照大御神の大命を受けて、葦原の中つ國を平定し、香取ヶ浦の邊に至った時、この地方なほただよへる國にして、地震(なゐ)頻りであったので、人々甚(いた)く恐れた。これは地中に大なる鯰魚(なまづ)が住みついて、荒れさわぐかと。

大神等地中に深く石棒をさし込み、その頭尾をさし通し給へると。當宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部をあらはし、深さ幾十尺。

円みを帯びた凸型
香取神宮の凸型要石
鹿島神宮の凹形の要石
鹿島神宮の凹型要石


貞享元年(1684)三月、水戸光圀、當神宮参拝の砌(みぎり)、これを掘らしたが根元を見ることが出来なかったと云ふ。當神宮楼門の側の“黄門桜”は、その時のお手植である。」

黄門桜
楼門脇に植わる”黄門桜”

水戸黄門の時代に既に、香取神宮と鹿島神宮の“要石”が地中深くで地震を抑え込む“妖石”であるとの民間伝承が存在していたことは、この地が古来、何らかの霊力を持った聖なる場所で思われていたといってよい。


現に香取神宮奥宮の入口付近に残る雨乞塚は、聖武天皇の御代(天平4年・732年)の大旱魃の折、雨乞を祈念するため造られた塚の史蹟だという。

突当り石段、奥宮
雨乞塚から奥宮を望む

この事実こそが、この地が古来、霊験神秘な場所であるとして庶民が畏敬してきたことを如実に物語っている。

雨乞塚駒札

明治初期の香取神宮少宮司で国学者であった伊能穎則(ヒデノリ)は、地震を抑える要石について次の和歌を残している。


“あづま路は 香取鹿島の 二柱 うごきなき世を なほまもるらし”


安政の大地震(1855年)が起きた際に、地震を起こす大鯰の頭を武甕槌神(タケミカヅチノカミ)が剣で突き刺す鯰絵を描いた鹿島神宮のお札が流行したという。


伊能穎則の和歌に詠われているように、香取・鹿島に鎮まる要石が地中で地震を抑えているのだという伝承は江戸時代後期に巷間に広まったようである。

凸形要石
この下で大鯰の尾を抑えているという

ちなみに、鹿島神宮の要石が大鯰の頭を、香取神宮の要石は尾を押さえているとのことで、また、この二つの要石は地中深くで繋がっているのだという。

鹿島神宮の凹型要石
鹿島神宮は大鯰の頭を抑えているという

それにしてもこうした要石というパワースポットにおいても、香取神宮と鹿島神宮はやはり対の関係にあり、凸形と凹形で一体となるのだと言わんばかりである。


また、香取海(カトリノウミ)の入り口の両岬突端に相和すように鎮座し、下総・常陸など関東平野へ侵入を図る敵への防禦策も、両地点に両神宮の存在があってこそ、その戦略目的は完璧に遂行されることになる。

そうした符牒に、経津主神と武甕槌神という二柱の神が中つ國平定を成し遂げた“人物”と“聖剣”の両者をそれぞれ神としたという私の推量にも、その不即不離、表裏一体の関係という点で、あながち荒唐無稽な説ではないのかも知れないと考えた次第である。

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