彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

歌垣(うたがき)

日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=王権交替の舞台に使われた海柘榴市(つばいち)3/6

あまりにも牧歌的な歌垣の情景のなかにあって、海柘榴市(つばいち)の日本書紀の初出は、仁徳天皇からの皇統の最後となった第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、仁賢天皇11年8月の条である。


有力豪族たる物部麁鹿火(あらかい)大連の娘・影媛を間に挟んで、時の権力者同士が恋の鞘当てを展開する場面である。


任賢天皇(在位488−498)が崩御し、時の大臣・平群真鳥(へぐりのまとり)臣は、「専ら国政をほしいままにして、日本に王たらむと欲(おも)ひ、陽(いつは)りて太子の為に宮を営(つく)り、了(つくりおわ)りて自ら居む。触事(ことごと)に驕慢にして、都(かつ)て臣節無し」といった王権を手中にしたかのような専横を恣(ほしいまま)にしていた。


平群真鳥は木莵(つく)宿禰(武内宿禰の子・仁徳天皇と同日の生まれ=仁徳紀元年正月の条)の子(雄略紀即位前紀11月条)である。重臣・武内宿禰の子であった木莵宿禰は第15代・応神天皇の御世において重用され、平群の祖とされる。


その平群真鳥の嫡子である鮪(しび)と、当時まだ太子であった武烈天皇との間で応酬された歌垣の舞台が海柘榴市であった。


本来、歌垣は男女で遣り取りされるものだが、ここでは恋敵同士が想い人の影媛を間に置いて相手を揶揄し合う歌合戦となっている。その様子が日本書紀には次のように詳細に描かれている。


太子が使者を遣わし媛に逢いたいと告げさせると、既に鮪と情を交わしていた影媛ではあるが無碍に断ることもできず、「妾(やっこ)、望はくは海柘榴市(つばきち=小学館・日本書紀のルビ)の巷(ちまた)に待ち奉らむ」と、海柘榴市で会いたいと応じた。

海柘榴市の馬井出橋と三輪山
大和川に架かる馬井出橋と三輪山山麓・海柘榴市がこの辺り

そこで、太子は馬に乗ってゆこうと平群大臣の管理する官馬(つかさうま)を出すように舎人に命じさせたが、「官馬は誰が為に飼養へや。命の随(まにま)に」と返答するものの、その態度は不埒千万で一向に命に服しない。


「太子、恨を懐(うだ)き、忍びて顔に発(いだ)したまはず」と、太子は平群(へぐり)一族の人を食った仕打ちにも面を伏せ、じっと忍従したとある。


その鬱屈した挙動から、後に、「女を躶形(ひたはだか)にして、平板の上に坐(す)ゑ、馬を牽(ひ)きて前に就(いた)して遊牝(つるび=交尾)せしむ」(武烈紀8年3月条)といった狂気を描かれた暴虐の大君を思わせる片鱗は一切窺うことはできない。


そんな太子がいよいよ海柘榴市で影媛と出逢い、その袖をつかみ、ぶらぶら逍遥しながら誘いをかける。そこに平群鮪(しび)が登場し、二人の仲へ割って入り、恋敵は群集の見守るなかで向かい合う形となった。


そして、まず、太子が鮪に向かって歌いかけるのである。

“潮瀬の 波折(なをり)を見れば 泳(あそ)びくる 鮪(しび)が鰭手(はたで)に 妻立てり見ゆ”

(潮の流れの早い瀬の幾重にも折り重なる波を見ると、泳いでいる鮪の傍にわたしと契った妻が立っているのが見える)


それに対し、臣下であるはずの鮪は挑発するかのように次の歌を返す。

“臣の子の 八重や韓垣(からかき) ゆるせとや御子”

(臣の子の家の幾重にも囲んだ韓垣の内に影媛を厳重に囲っているのだが、それを緩めて影媛をどうぞと差し出せというのですか、太子よ)


そこからさらに問答歌の応酬が続いたのちに、太子が影媛に次の歌を贈った。

“琴頭(ことがみ)に 来居(きゐ)る影媛 玉ならば 我が欲(ほ)る玉の 鰒(あわび)白玉”

(琴を奏でるとその音に引かれて神が影となって寄り来るという。その影媛は玉に喩えるならわたしの欲しい玉である、あの鮑の真珠のような)


それに対し、影媛に代わり鮪が答歌したのが次の歌。

“大君の 御帯の倭文織(しつはた) 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに”

(大君の御帯の倭文織(しずおり)の布が結び垂れていますが、その誰にも、わたしは思いを寄せておりません。思うのは鮪臣のみです)


ここにおいて鮪と影媛の相思相愛を知らされた武烈は、海柘榴市の満座のなかで赤恥をかかされた格好となる。


辱めを受け、怒りに震えた武烈はその夜、大伴金村連を召し、即座に鮪の暗殺を命じ、鮪は乃楽(なら)山で誅殺された。


鮪の死を知った影媛が泪して詠った歌が次の通りである。

“青丹よし 乃楽(なら)のはさまに ししじもの 水漬く辺隠(へごも)り 水灌(みなそそく)く 鮪の若子を 漁(あさ)り出(づ)な猪(ゐ)の子”

(乃楽山の谷間で、鹿や猪のように水浸しの片隅にこもっている水灌(みなそそ)く鮪の若様を、漁(あさ)り出さないでおくれよ、猪よ)


この絶句のよって武烈太子は完膚なきまでに打ちのめされた格好である。これほどの恥辱はそうそうないが、治天の君が太子の時代とは云え、ここまで貶められて描かれているところもいかにも奇妙ではある。


その後、鮪の父で時の一番の権力者であった真鳥も親族を含め悉く、大伴金村によって討ち果たされることとなった。


平群真鳥をはじめ一族を抹殺したのちの下りが仁賢11年12月の条である。武烈天皇即位に至る経緯を述べているのだが、それが何とも謎めいた記述となっているのである。


「十二月に、大伴金村連、賊を平定(たひら)ぐること訖(をは)りて、政を太子に反(かへ)したてまつる。・・・『今し億計(おけ=仁賢)天皇の子は、唯陛下(きみ)のみ有(ま)します。・・・日本には必ず主(きみ)有します。日本に主まさむには、陛下に非ずして誰ぞ・・・』とまをす」


一臣下たる大伴金村が“政を太子に反す”と言うこと自体甚だ奇妙であるが、それでは一体、その時点で誰が王権を有していたという認識であったのか。


また、「日本に主まさむには、陛下に非ずして誰ぞ」と、“日本に天皇がいないのはまずい、天皇になるのはあなたを措いて他にない”と、大伴金村は言っている。

普通に考えれば、武烈帝は仁賢天皇が崩御した仁賢11年8月にすんなり皇位継承しておかしくなかった。


何となれば、武烈は皇太子(ひつぎのみこ)に仁賢7年、崩御の4年前になっていたのだから、崩御後、即座に即位しても手続き上、誰も異議を唱えることはなかったはずである。


しかるに紀の記述は、武烈即位前紀としてたった4ヶ月の間の事柄として海柘榴市を舞台とする平群一族の専横ぶりを殊更に描いているのである。


つまり、平群真鳥が武烈(当時、太子)の為と称し宮殿を造営し、そこに自らが住まうなどその驕慢さや海柘榴市の平群鮪(しび)との遣り取りに至る一連の描写から、その時の王権は平群真鳥に移っていたと見るしかない。


そして、武烈天皇は大伴金村の強力な支援を受け、平群王朝を倒し、即位した。


武烈王朝の立役者となった大伴金村はその勲功により大連へと昇進することになる。その後、金村は守屋の孫で武烈から欽明五朝にわたり大連を拝命するが、とくに武烈天皇で絶えることとなった仁徳天皇(応神天皇第四皇子)の皇統に替わり、応神天皇五世の孫である継体天皇即位を実現させた大功労者として有名である。その金村に同調し、継体天皇即位を後押ししたのが、大連となっていた影媛の父、物部麁鹿火(あらかい)であった。







日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=歌垣の舞台、いわば公設の合コン会場でもあった海柘榴市(つばいち・つばきち)2/6

飛鳥時代の政治・文化の中心であった三輪山麓一帯、とりわけ南西部の初瀬川両岸に展開した海柘榴市(つばいち)は多彩な物品の交流する市として殷賑を極めた。

大和川の堤に立つ仏教傳来之地の石碑
大和川の堤に立つ仏教伝来の碑・この辺りが海柘榴市

そうした衆人が集う場所であったがゆえに、そこはいつしか若い男女にとっての出逢いの場所ともなり、恋を語り合いまた恋の駆け引きの舞台ともなっていった。

飛鳥時代の衣装・明日香村埋蔵文化財展示室
この様な衣装を着た若人が恋を語らったのか(明日香村埋蔵物展示室)

それは春や秋祭りの頃、若い男女が集い、五、七、五といった調子の長歌で互いの想いを伝え合う歌垣(うたがき)という風習である。


小学館古典文学全集の万葉集第3巻の注釈によれば、“歌垣は本来、呪術的な儀礼の踏歌から発した古代の習俗で、多数の男女が特定の日に集まって飲食・歌舞し、性的解放を行なった遊びをいう”とある。


当世のLineやメールを駆使する若者たちと較べると、何とも悠長であり牧歌的であり、その天真爛漫とした微笑ましい情景のなかには純朴でそれ故に心豊かな飛鳥人の笑顔が零れ落ちて見える。


そこで、ここは日本書紀というより、まず万葉集からその歌をご披露することにしよう。


巻第十二 2951番

“海石榴市(つばきち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜しも”

(海柘榴市のいくつもの路が交錯する辻に立ち、あなたと足踏みし踊った時に結び合わせた紐と紐、その熱い夜のことを想い出すとその時の紐の結び目を解くことなどとても惜しくてできませんわ)


初々しいが、何ともストレートで情熱的な愛の告白の歌で、乙女の火照った頬の赤く恥じらう様までがはっきりと見えてくる。


もう一つ、当時、異性に名を尋ねることは求婚を意味したのだが、その有名な恋の駆け引きの問答歌を。


巻第十二 3101番(問歌)

“紫は 灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の街(ちまた)に 逢へる子や誰(た)れ”

(紫染めには椿の灰を加えるとさらに美しくなるもの、そんな椿の植わる海石榴市で出逢った娘さん、素敵な貴女の名前はなんとおっしゃるの)


巻第十二 3102番(答歌)

“たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか”

(母がわたしのことを呼ぶ本名を教えてあげたいけど、行きずりの逢ったばかりの貴方ですものお教えすることなどできないわ)


乙女心をとろかす機知に富んだ甘い言葉に対し、乙女が切り返した歌などは、女性の初心(うぶ)さを見せるようでいて男を焦らす手管、お若いのになかなかの恋のお手並みとお見受けした。


こんな牧歌的な歌垣の情景が目に浮かぶ万葉の時代のなかにあって、日本書紀に初めて登場するのは、大和政権の覇権を巡る生々しい抗争を描く舞台装置としてここ海柘榴市が効果的に使われているのである。


それは第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、第24代仁賢(にんけん)天皇(同488−498)11年8月の条である。詳しくは次稿に譲る。




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