飛鳥時代の政治・文化の中心であった三輪山麓一帯、とりわけ南西部の初瀬川両岸に展開した海柘榴市(つばいち)は多彩な物品の交流する市として殷賑を極めた。

大和川の堤に立つ仏教傳来之地の石碑
大和川の堤に立つ仏教伝来の碑・この辺りが海柘榴市

そうした衆人が集う場所であったがゆえに、そこはいつしか若い男女にとっての出逢いの場所ともなり、恋を語り合いまた恋の駆け引きの舞台ともなっていった。

飛鳥時代の衣装・明日香村埋蔵文化財展示室
この様な衣装を着た若人が恋を語らったのか(明日香村埋蔵物展示室)

それは春や秋祭りの頃、若い男女が集い、五、七、五といった調子の長歌で互いの想いを伝え合う歌垣(うたがき)という風習である。


小学館古典文学全集の万葉集第3巻の注釈によれば、“歌垣は本来、呪術的な儀礼の踏歌から発した古代の習俗で、多数の男女が特定の日に集まって飲食・歌舞し、性的解放を行なった遊びをいう”とある。


当世のLineやメールを駆使する若者たちと較べると、何とも悠長であり牧歌的であり、その天真爛漫とした微笑ましい情景のなかには純朴でそれ故に心豊かな飛鳥人の笑顔が零れ落ちて見える。


そこで、ここは日本書紀というより、まず万葉集からその歌をご披露することにしよう。


巻第十二 2951番

“海石榴市(つばきち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜しも”

(海柘榴市のいくつもの路が交錯する辻に立ち、あなたと足踏みし踊った時に結び合わせた紐と紐、その熱い夜のことを想い出すとその時の紐の結び目を解くことなどとても惜しくてできませんわ)


初々しいが、何ともストレートで情熱的な愛の告白の歌で、乙女の火照った頬の赤く恥じらう様までがはっきりと見えてくる。


もう一つ、当時、異性に名を尋ねることは求婚を意味したのだが、その有名な恋の駆け引きの問答歌を。


巻第十二 3101番(問歌)

“紫は 灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の街(ちまた)に 逢へる子や誰(た)れ”

(紫染めには椿の灰を加えるとさらに美しくなるもの、そんな椿の植わる海石榴市で出逢った娘さん、素敵な貴女の名前はなんとおっしゃるの)


巻第十二 3102番(答歌)

“たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか”

(母がわたしのことを呼ぶ本名を教えてあげたいけど、行きずりの逢ったばかりの貴方ですものお教えすることなどできないわ)


乙女心をとろかす機知に富んだ甘い言葉に対し、乙女が切り返した歌などは、女性の初心(うぶ)さを見せるようでいて男を焦らす手管、お若いのになかなかの恋のお手並みとお見受けした。


こんな牧歌的な歌垣の情景が目に浮かぶ万葉の時代のなかにあって、日本書紀に初めて登場するのは、大和政権の覇権を巡る生々しい抗争を描く舞台装置としてここ海柘榴市が効果的に使われているのである。


それは第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、第24代仁賢(にんけん)天皇(同488−498)11年8月の条である。詳しくは次稿に譲る。