神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

 

 梅林寺(美津島町小船越)は、国道382号線沿いの坂を少し上った処にある。その382号線の200m先を右に入った一帯が鴨居瀬地区になるので、先に紹介した住吉神社に行く途中に訪ねるとよい。

 


 

梅林寺


梅林寺と記す木柱
 

 

 梅林寺は日本への仏教伝来に深くかかわる伝承を有す寺であるが、仏教伝来についての「紀」の記述はあまりに素っ気ない。

 

【欽明天皇1310月 「仏教公伝」】

「冬10月に百済の聖明王(注1)、西部・姫氏・達率・怒リ斯到契・等(せいほう・きし・だちそち・ぬりしちけい・ら)(注2〜5)を遣(まだ)して、釈迦仏の金銅像一�默・幡蓋若干(ばんがいじゃくかん)・経論若干巻を献る」とあるのみである。

 

(注1)    聖明王(在位523554):百済26代王。

(注2)    西部:百済の王都五部(上部・前部・中部・下部・後部)の
  一つ。上下は東西、前後は南北を表すため、西部は下    
  部にあたる。

(注3)    姫:姓名の性の部分

(注4)    達率:百済十六等官品の第二品。それまで、遣日使として「達  
  率(だちそち)」のような高位の者の例はない。また、姓 
  に 氏をつけるのも異例。さらに官品は姓名の上に冠す
  るので、それも異例である。

(注5)    怒リ斯到契:姓名の名の部分

 

つまり、百済の聖明王が、欽明天皇13年(552年)に使者を遣わし、仏像や経論などを献上したとあるのみである。

 


  

本堂軒先に吊るされる梵鐘


本堂 

 

ただ、伝承として、その百済の使節は渡海途中の路津(ワタリ=船着き場)としてこの小船越に寄港したとされる。その際に、御堂を建て仏像を仮安置した場所が当地であり、日本最古の仏跡とされる由縁となっている。後に、その仏縁の地に建立されたのが梅林寺である。日本最古の寺院とも伝えられるが、その真偽のほどは定かではない。

 

 


山門より本堂を 

 

山門を入ってすぐ右手に歴代住職の墓碑が25基、並んでいたが、初代の墓碑にはただ、「開山」と刻まれているのみで、詳細を知ることは出来なかった。

 


  

25基の歴代住職の墓碑


自然石のだ円形の「開山」 の墓碑

 

また、この梅林寺は中世に入っても、日朝関係の橋渡しの役割を担うことになった。嘉吉3年(1443)に李氏朝鮮と宗貞盛の間に交易に関する「嘉吉(カキツ)条約」が結ばれ、対馬から朝鮮への歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を朝鮮から支給されることとなった。その渡航認可証明書(ビザ)が「文引(ブンイン)」といわれ、発給権が宗氏に与えられた。その文引を発給する事務を担ったのが当寺であった。

 

朝鮮からの仏教伝来の通過地点であった当寺が、中世においても日朝交易のビザ発券業務を一手に引き受けることになったのも、その間も朝鮮と梅林寺の関係が強かったことを表わすものと云ってよい。

 

ただ、現在、境内にその縁(ヨスガ)をほとんど見出すことは出来ないのが、非常に残念である。

 


山門と本堂の真中に焼香炉が 

 

 

さて、話は逸れるが、聖明王から贈られた仏像のその後について、「エッ!」という伝承が残されているので、ここでご紹介することにしよう。

 

仏教を新たな国家鎮護の要として勢力拡大を企図する蘇我稲目と、それまでの神道を守ろうとする物部尾輿、中臣鎌子の対立が激化してゆく。そうした状況で、疫病が蔓延。その原因は異国から入って来た蕃神(仏教)のせいであるとされ、聖明王から献上された仏像は、物部尾輿により難波の堀江に棄てられてしまう。

 

半世紀が過ぎた推古紀10年(602年)、信州の若麻績東人(本田善光)が堀江の水中から阿弥陀仏像を発見、出身地の信州麻績へと持ち帰る。その後、皇極天皇元年(642年)、阿弥陀如来のお告げにより現在の善光寺の地に移り、そこに伽藍造営がなされた。それが信濃善光寺の起こりで、その仏像が善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来」とされている。(「善光寺縁起」・「伊呂波字類抄」)

 

 但し、「紀」によれば百済より献呈された如来は「釈迦如来」であるが、「善光寺縁起」では「阿弥陀如来」となっており、実際の本尊も「阿弥陀如来」であり、伝承とは、仏像自体が異なっていることになる。