京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む
京田辺市普賢寺下大門13
最近の朝日新聞に関するブログ投稿で荒んでしまった心を落ち着かせねばと、先月、南山城を一日かけて周り、気高き仏様をお参りし心が穏やかに安らいだことを思いだし、写経でもするつもりで心に残ったいくつかの寺院をご紹介する。
まず、南山城、京田辺市にある観音寺である。
観音寺は白鳳2年(662)天武天皇の勅願により、義淵僧正が親山寺(筒城寺)を開基。その後、天平16年(744)聖武天皇の勅願により良弁僧正(東大寺の初代別当)が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺(そくちょうざん ふけんきょうほうじ)と号し十一面観音立像を安置したといわれている。
そもそも今回、南山城を訪ねる契機となった寺院が実は観音寺であった。
というのは、今年の葵祭を観覧した際に京都国立博物館で開催されていた“南山城の古寺巡礼”展を併せて参観した。
南山城地域に点在する十一の寺院の寺宝が一堂に会する機会は稀だということで、ちょうどよい機会と京博を訪ねたのである。
観音寺もその一つの寺院として参加していた。そして、国宝であるご本尊は出展されていなかったのだが、観覧後、京博の売店で “これは美しい”と記念に買い求めた絵葉書が、実は観音寺の国宝・十一面観音菩薩立像であった。
当日、たくさんの仏像を見たことで、この美しい観音様もいらしたと思い込んで買ったものだ。後日、ブログにその写真を掲載したところ、京博にその観音様は出展されていませんでしたよとのご指摘がコメントで送られてきた。
いやはや、赤面しきりの失態であった。
そこで、今回、祇園祭観覧の合間を縫って、一日、木津川沿いに点在する南山城の寺院巡りを敢行、観音寺の国宝十一面観音菩薩さまにお会いしてきたのである。
当寺はまず本堂手前左手前にあるご住職(三神栄弘氏)のご自宅のインターフォンで来訪を伝え、ご本尊を拝観したい旨を伝える。
すると当日は住職の体調が優れぬと奥様が出てこられ、本堂へと案内された。
本堂の階段を昇り、引き戸を開けて堂内へと導いてくれる。
堂内に差込む陽光で明るくなった本堂には奥様とわたしら夫婦と運転手さんの4人だけ。身の引き締まる厳粛な空間である。
そこで奥様が諄々とご説明をしてくれるのである。まさにご本尊様を独り占めにしている気分である。
そして大きな厨子の観音扉が開けられる。あの絵葉書で見た十一面観音立像が現われた。単に気高く気品のある御顔立ちという以上に、どこか母にも似た慈愛に満ちた御顔なのである。
そして、仏様に対してこう申し上げるのは甚だ不謹慎であることは重々承知であるが、その腰のくびれた立ち姿はどこか艶めかしく、肉の量感が伝わってくるのである。
厨子の真ん前に立ち喰い入るように見上げていると、奥様が少し離れてご覧になったほうがこの仏様はもっと美しいですよと教えてくれた。
そして見る方向でお顔が変わって見えるとも教えてくれた。そこで左斜め、右斜めと立ち位置を変えてみると、あら不思議、仏様のお顔がふっくらと見えたかと思うと、今度はすっきりしたお顔に見える。
名工の造形の妙であろう、光の加減なのだろうか、本当にその面立ちが変わって見えるのである。仏像の国宝は数多くあるが、これほど艶めかしく、にも拘らずに気高く美しい仏様は珍しい。木心乾漆造という手法がこの質感と嫋(たお)やかな曲線美を造りだしているのだろうか。
美しい菩薩さまといえば、わたしは薬師寺東院堂の聖観世音菩薩もその御顔立ち、シルエットともにやはり気品のある美しい仏様で大好きである。
鋳造と乾漆の違いなのだろう、十一面観音立像はその体温までがわたしのところに伝わって来るかのような温かみのある嫋やかな曲線美をもつ仏様であった。
そして、最後に一番のビューポイントを奥様が教えて下さった。
住職が日々の勤行をされる時にお座りなる場所、磬子(けいす)の前の座布団に坐って仰ぎ見るお姿が一番美しいのだと。
そこで、わたしたちも順番にそこへ坐らせていただき、御本尊のお顔を仰ぎ見た。
美しく、荘厳である。
京博で勘違いした仏様・・・こうしてお会いできて本当に幸せであった。
それから外へ出て、本堂手前左手の小高い丘陵の上に、当寺の鎮守である地祇神社が祀られていた。鳥居が本堂のすぐ脇にある。
延喜式神名帳に『山城国綴喜郡 地祇神社』とある式内社に比定されており、社名は“クニツカミノヤシロ”と読むが、地元では“チギ神社”と呼ばれているとのこと。
創祀は聖武天皇の時代、この観音寺(普賢寺)が創建された頃まで遡るという古社である。延喜式には祭神一座とあることからみると、オキナガタラシヒメ(神功皇后)を主祭神とするらしい。
地祇神社が建つこの地は、もともとの普賢寺「息長山普賢寺」があった場所と推定され、塔の礎石や7、8世紀の古瓦などその遺構と思われる遺跡、出土品が存在する。
また、普賢寺に隣接する天王地区には、これも延喜式式内社である朱智(しゅち)神社が位置している。貞観11(869)年に朱智神社の祭神として祀っていた迦爾米雷命(カニメイカヅチノミコト=牛頭天王)を祗園の八坂神社の前身である八坂郷感神院に遷したことから八坂神社の勧請元となる神社である。
そうした縁起から朱智神社は“元祇園社”と呼ばれ、祇園祭に際しては朱智神社の氏子が奉じた榊をここ天王地区の若者が八坂神社まで届ける「榊遷」という行事があり、その榊を受けて山鉾巡行を始めたとい言い伝えが今に残されている。現にわたしはその伝誦を観音寺の奥様から直にお伺いした。
祇園祭を楽しみに京都を訪れ、たまたま美しい観音様にお会いしに伺った場所の辺りが“元祇園社”と呼ばれる深い所縁を持つ神社に所縁のある場所であったとは、何か十一面観音様のお導きのようなまことにもって不思議な縁を感じたのであった。