歳時記エッセイ 1.「入学試験」

 入学試験の季節が来ると、三十数年前にもなる自分の大学入試のことを毎回、思い出す。昭和四十年代の半ば、まさに学生運動華やかし頃のことである。一年間浪人をして悲壮な決意で受験に臨んだあの冬の厳しい寒さの日々。その悲愴感がこの肌に皮膚感覚として今でも残っており、この季節には必ずと云ってよいほどに甦ってくる。

 その記憶は風が光りはじめる季節であったにも関わらず、色に例えるとどこかモノクロームであり、それを包む空気は全きメランコリーである。受験の結果は目的の大学に入学できて幸せであったはずなのに、入学試験自体の思い出は何時までたっても心の内に冬ざれを引き摺ったままである。思い起こせば当時十九歳の私は受験日が近まってくるにつれ、ぴんと張り詰めた緊張感のなかにそこはかとない虚しさと寂寥感を覚えていたようだ。冬ざれという言葉が持つ荒涼として中身のない伽藍堂のような語感が、その時の自分の気持ちにどこかぴったり重なっているように思えてならない。

 今年、親戚の息子が受験で上京してきた。ひと晩その受験子とゆっくり話をする機会があったが、その表情を見ながら現代の受験生気質を垣間見たような気がした。やせ我慢でもなく、決して悲愴な面持ちなど見せなかったのである。いや抑々、受験を悲愴なものだとする意識そのものがないのであろう、ここの大学に落ちてもあちらがある。人生の選択肢は幾つも用意されている。私はキラキラ輝く瞳に魅入って、この若者はそのことを微塵も疑っていないし、不安も抱いていないと感じた。見事と云うしかない。私たちが感じていたこの大学でなければ・・と云った頑ななまでの拘りや切迫感が抑々、希薄なのだと知った。そして今の時代そのものが、大学卒あるいはどこどこ大学出身と云った名目のレッテルに価値を求めなくなっていると云った背景があることもそのことを後押ししているのだと考えた。そう思うと、それはそれで薫風を感じさせる新たな時代の感性でもあるのだとその若者の屈託のない顔を眺めながら得心せざるを得なかった。

 こうして入学試験と云う恒例行事も徐々にその含む意味、それに対する意識が変質していくのだろう。冬ざれから更衣若鮎と云った希望の季節への節目あるいはその勢いを求めての一通過点と云ったイメージへ変化を遂げていく。受験子の希望に溢れた明るい表情を見ているうちに、そうした感慨を覚えた。と同時に、悲壮と云う言葉に何故か温かい懐かしさと胸苦しいほどの切なさを感じたのも偽らざる気持ちであった。