上高地・穂高神社奥宮の古式ゆかしい御船神事を参観する(2013.11.4)
松本市安曇上高地明神
霊峰・明神岳(標高2931メートル)の直下、
上高地・明神池の湖畔に
穂高神社の奥宮は、ひそやかに鎮まる。
ご祭神は穂高見神(ほたかみのかみ=神武天皇の御叔父神)である。
安曇野にある本宮のご祭神は綿津見命・穂高見命・瓊瓊杵命である。
奥宮は小さな祠が建つのみであるが、ご神体である穂高連峰の中心たる明神岳を後背にいただく神域は約1万6千坪の広さにおよぶ。
大正池とならび上高地を代表する天空の湖、明神池は、実は穂高神社の神領地なのである。
したがって、40年前にはそんな拝観料など払っていなかったと語る家内も、その事情を知れば、社領地であり、その自然環境保護に少しでもお役に立てることになるのだからと納得した次第である。
神官が一人常駐する社務所と奥宮の間を抜けると、そこに鏡池とも称される明神池が広がる。
一の池である。正面に明神岳の霊峰を仰ぐ。
透き通った伏流水を張った湖面には霊峰の明神岳が映り込む。
また、あまりの透明感から池の魚も鮮やかに目にすることが出来る。
10月上旬。この明神はすでに紅葉が盛りに近づき、その色づいた木々が山肌と湖面を彩る。
まさに息をのむ景観とはこのことである。
明神池・二の池は奇石、奇樹、枯れ樹が水面に浮かぶがごとく点在し、神が造形した枯山水ならぬ“活山水(いけさんすい)”のお伽話のような光景が眼前に広がる。
江戸時代・寛文年間のあたりから、島々谷から徳本峠を越えるルートが木材の搬出や炭焼きなどの生活を支える道であり、上高地へは徳本(とくごう)峠を越えて入山するのが常の経路であったという。
つまり、穂高神社奥宮の祭られる明神は峠を越えた到着点であったことになり、現在の観光客の主たるアプローチである河童橋からとは反対側から明神へ到達していたわけである。
上高地を世界に喧伝した英国人宣教師ウォルター・ウェストンを上条嘉門次(島々谷の猟師)が案内したルートも、まさにこのルートであった。
だから、往古の日本人やウォルター・ウェストンが最初に目にした穂高連峰は明神岳を中心となす光景であったことになる。
『明神岳は、かつて「穂高大明神が鎮座する山々」という意味で、穂高連峰全体をさす言葉として使われていた(上高地公式ウェブサイト“明神”)』のは、この徳本峠から見た崇高なる霊峰を信仰の対象としていったのも、十分、うなずけるところである。
その峠を降りて行った先に、霊峰の直下に清澄な山水を湛える明神池がある。山気を頬を打たせ、畔に立った時、その地を神と出合ったまさに“神合地(かみこうち)”であると感じたのは、至極、自然な人の心の動きだったのではなかろうか。
奥宮由緒によれば、その“上高地”という名称が、古来、神降地、神合地、神垣内、神河内と神との関わりのある地と称されていたことから、この明神の地が清浄の地、神域として崇められてきたことは明らかである。
奥宮由緒(境内案内板)の説明は以下の通りである。
『太古奥穂高岳に天降ったと伝えられる穂高見神(ほたかみのかみ)は、海神・綿津見神(わたつみのかみ)の御子神で、海神の宗族として遠く北九州に栄え、信濃の開発に功を樹てた安曇族の祖神(おやがみ)として奉斎され、日本アルプスの総鎮守として明神池畔に鎮座する。
松本藩主水野忠恒、大成の信府統記(1742)には、
「皇御孫尊(すめみまのみこと)穂高嶽ニ鎮座マシマスト云ヘリ。此嶽清浄ニシテ其形幣帛ノ如ク、麓ニ鏡池、宮川、御手洗(みたらし)、河水在ル所ヲ神合地ト云フ。大職冠(たいしょくかん)鎌足公モ此神ヲ敬ミ祭り給ヘリ・・・」
とあり、すでに江戸時代中期には松本藩からも厚く崇敬されて、鎮座の昔を仰ぎみることが出来る。上高地は古くから神降地、神合地、神垣内、神河内とされ、神々を祀るに最も相応しい神聖な浄地である。
善光寺名所図会(1843)に霊湖とされている明神池は鏡池、神池ともいわれ、明神岳の直下にして、一の池・二の池からなり、奇石、奇樹の島影は神秘ただよい、10月8日神池に浮かぶ龍島鷁首の御船は碧潭(へきたん)に映えて美しく、平安朝の昔を偲ばせる。』
その鏡池で催される10月8日の例祭こそが、今回の旅の目的である“御船神事”、別名を紅葉祭りというものであった。
此の度、その御船神事に参加すべく明神池を訪ねたのであるが、秋晴れの天候の下平安朝を偲ばせる厳かでしかも華麗な御船神事の様子は別稿に譲ることにする。