新聞は日本語の貴重なる伝承者

――新聞への投稿を終えて

 

 今回、依頼を受けて新聞に五回連載の投稿文を載せた。これまで常々、読者としての立場から新聞記事を読んでいたわけだが、今回は書く側から新聞に使われる日本語のあり方について不自由さとある種の不条理を実感し、そして大きな問題意識を持った。

新聞・通信社は使用する漢字を「基本的に常用漢字」の範囲内としている。常用漢字は昭和56101日に内閣訓令第一号で告示された「常用漢字表」の1945字を云うが、それを基本として「日本新聞協会用語懇談会」で例外規定などを設けたうえで、各社独自に用字・用語集を作成し、それらに準拠して記事を書いているという。

 

 こんな詳しい事情は今回の字数制限のある原稿を新聞社が校正し、その修正の多さに愕然としたからである。日頃、何気なく使っている漢字が使えない。初めて知った制限漢字の多さに呆れとともに、日本語文化の伝承は一体どうなるのかとの危惧を抱くようになった。私の場合、八百字ほどの文章が毎回の執筆量であった。決して充分な分量ではない。だから書きたいこと、自分がどうしても伝えたい熱い思いを原稿用紙二枚程度に収めるには、適切な意味を含んだ表意文字である漢字、それも正鵠を得た漢字を使用することは真に重要かつ有効な意思表現の手段であった。

 

 これまでも読者の立場から新聞記事を読んでいて、「やみ夜」のような「混ぜ書き」に戸惑うことが度々あったし、「歌舞き」などに至っては噴飯ものの表記であった。しかし今回、自分が書く側に立つとこの不自由さには辟易したし、折角、自分の気持ちを伝えるのに適した言葉を探し当てたのに、その漢字が使えずひらがなに書き直さなければならない時の口惜しさはなかった。そして連載を重ねるうちに、徐々に、日本語という文化の伝承という極めて重要な疑問が湧き上がって来たのである。

 

 云うまでもなく新聞は文字によって読者に情報を伝達するメディアである。だからこそ言葉の持つ特性なり、その効果、重みを最もよく理解し、強烈な問題意識も持っているはずである。「日本新聞協会用語懇談会」という仰々しい集まりがあることこそ、そのことを如実に表わしている。

 だのに・・・と、私は今回の投稿という行為で思わざるを得なかった、いや、思いを強くした。今、真に新聞の「特殊指定廃止」「再販制度廃止」といった問題が公取委員会で取り上げられ、これから国民の目の前で本格的な議論がなされていくことになると思う。その時に、新聞社が云う文化の普及という機能、使命に考えを至す時、彼らがそのことに対し、これまで地道な努力、不断の挑戦を続けてきたと云えるのか。私はその一点で首を傾げざるを得ない。今度の「この頃→このころ」と、こんな漢字もひらがなにしなければならぬことを知った時に、これからの新聞社のやっていかなければならぬ使命のひとつは何かに得心がいった気がした。

 

 言語、書き言葉はその民族のアイデンティティーそのものである。だからこそ先祖から受け継ぎ、美しい日本語を子孫に伝えていくべきものであると思っている。その役割の重要な一翼を担っているのが、国民が日常生活のなかで文字というものを目にする新聞という媒体ではないのかと思ったのである。そして、その意味で新聞は「再販問題」などよりもっと高次元の意味において「存在せねばならぬ」媒体、メディアであると考えるのである。常用漢字などというお役所の決めた「国民は愚かである」という傲慢な意識から決められた常用漢字の使用を国民に強制することで「国家そのものが伝統を絶えさせる」という世にも不可思議な愚行に組することなく、そうした愚かな権力と対峙して日本語の伝承者としての役割を強く自覚し、その時代を代表する高邁な使者として目覚めて欲しいと強く思った次第である。