彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

日本の八幡宮の総本宮

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(中)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

伊豆山

 
 海神神社について「対州神社誌」は、「一.八幡宮本社より鳥居迄道法百六拾間 鳥居よりしをひ川迄百三拾間 鹽(しお)井川より宮司家迄百四拾五間 一.神山東西八町程 南北四町程 樫松有 山之八分目程之所へ本社あり ・・・ 一.神器品類 不暇枚挙」と記載しているように、当社は古来、神山すなわち伊豆山全体を
神域とし、その本殿は山腹を大きく鈎型に縫うように277段の階段を上った山の八分目あたり、かつて「伊豆原」と呼称された平坦地に建っている。

山腹八分目にある平坦地、伊豆原

御前浜に面するように建つ一之鳥居をくぐり境内に足を踏み入れたとき、この神社がまさかこれほど壮大なものだと考えてはいなかった。

手水舎(ちょうずや)

一之鳥居を入ってすぐの境内


境内由緒書き


海神神社の鎮座する伊豆山は、その本殿を中心に約86haが国設鳥獣保護区として指定され、「野鳥の森」としてその生態系が保護されている。そのため今日に至るまで千古斧を入れぬ原生林として古来の姿を保っているという。

二之鳥居と右手に野鳥の森の観察路標識

二之鳥居


 神社由緒に神功皇后は神霊強き山とした「斎(イツキ)の山」の頂上に神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め国土守護を斎き祀ったとあるが、その本殿までの長くて急な階段を昇り、山腹途中から朝鮮海峡を眺め渡した時、まさにこの伊豆山自体が御神体であり、国を守護する神山であることを確信する。

二之鳥居を過ぎてすぐに目に付く磐座

急勾配だが幅の広い堅牢な石段

この上に三之鳥居が

山肌を覆う常緑広葉樹林の木の下闇に続く堅牢な石段を一段一段踏みしめながら、時折、葉叢の間を縫ってくる潮風が頬を撫でてゆく。

樹間から見える海峡

その風は遠い昔からこうして朝鮮半島から海峡を渡り異国あるいは母国の匂いをこの対島の人々に運び続けてきたのだろうと感じた。

三之鳥居

扁額

 長い階段を昇り切り顔を挙げたその真正面に、1.5メートルほどの高さに組まれた一重基壇の上に床下に亀腹(カメバラ)を有する2メートル弱の高床式の拝殿を見上げることになる。

海神神社の堂々たる拝殿

一重基壇に高床式の堂々たる拝殿

「対州神社誌」に「拝殿貮間に三間 此外に二間に三間之廊下これあり」とあるが、石段四段その上に木の階段四段を上ったところに均整のとれた堂々たる拝殿はある。

BlogPaint

拝殿南側から・床下に「亀腹」が見える

そして、本殿は「但し、本社と拝殿之取付なり」とあるように、拝殿の広間の奥、弊殿へ進み十段の階段を昇ったところに建つ。「神社誌」に「本社桁間七間入五間 此の内に四尺間にして小御所五間これあり」と、これまた威風辺りを払う威厳を感じさせるものである。

拝殿広間から弊殿を伝い、本殿階段へゆく

弊殿前に「16菊」の神紋が

ここで本殿の屋根は銅葺きの切妻造りだが、大棟に載る鰹木(カツオギ)は奇数の五本で、奇数の場合は男神を祀るという定説がある。そこで建造物の特色からは「木坂八幡本宮」たる祭神は男子たる応神天皇ということになる。



本殿

さて、ここで非常に不思議なのが、海神神社の本殿には神社特有の「千木(チギ)」がないことである。因みに木坂から遷されたとされる厳原八幡宮本殿には女神を祀るとされる内削ぎの「千木」が置かれている。(但し、どなたかの写真では千木が置かれていた。修復中でもあったのだろうか・・・)

千木のない本殿

神仏混合などの影響の濃い神社に「鰹木・千木」のない本殿を有すものがあることは仄聞したことがあるが、「鰹木」はあるのに「千木」がない神社というのは浅学非才にして訊いたことがない。

本殿と拝殿、境内社を南側から

次に拝殿の上から右手にそう広くない平坦地に境内社が五つ整然と列んでいるのが見下ろせる。本殿に連なるその一群の社の後背には斎き山なる伊豆山の頂上が迫っている。

拝殿の屋根越しに伊豆山の頂きが

拝殿より南側に境内社を見下ろす(この5社はかつて官社であった)



境内社については「大小神社帳」の記載に拠った。拝殿から近い順に記す。なお( )内は御祭神である。



    一ノ宮(神功皇后)

以下、脇宮として

    若宮(仁徳天皇)

    新霊(菟道皇子)

    軍殿(日本武尊)

    瓊宮(ニノミヤ・豊姫霊)



当社の祭神として応神天皇のほかに、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)と豊玉姫(海神豊玉彦命の娘)、さらに「大帳」によれば先の二柱の御子、鵜茅不合葺尊(ウガヤフキアエズノミコト=神武天皇の父≒阿曇磯良)も同様に祀られていることも、当神社が「八幡宮」の創始とされる一方で、海人族と天孫族との融合に強い縁を有する聖地であったことを強く窺わせる。神功皇后が「息長帯足比売命(オキナガタラシヒメノミコト)」とも呼ばれ、その出自を「息の長い」海人族と推定すれば、この神山に鎮座する海神神社は、その名にも顕されているように海の民、海人族と極めて深い関係を持つと考えるのは至当であり、きわめて自然である。

境内

 斎(イツキ)の山の頂近くの斎原(イツキ)に鎮座する海神神社。その神山の山裾には「御潮斎(オシオイ)」という禊ぎの儀式を想わせる鹽井川が流れている。そして、後述するように社前の御前浜で今日もなお行なわれている「ヤクマ祭り」といった儀式を考え合わせると、この地はまさに「海神」という海人族の神を祀るに相応しい聖地であると云うべきである。




 


 


 

境内端より樹間に海峡が望める

 夏の一日、斎きの山頂でひとり朝鮮半島を想うと、遠き昔、一衣帯水の地より巧みに潮路を伝い、この対馬へ渡って来た人々の息遣いが、この「斎きの原」のそこここに聴こえてくるような気がした。


 


神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)

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神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)



海神神社一之鳥居


海神神社一之鳥居



   我が国の八幡宮の起源「木坂八幡本宮」



 神々のふるさと、対馬巡礼の旅---番外編(神功皇后は実在した1・2)」で見たごとく神功皇后の実在の可能性が高いとする一つの根拠が、対馬に数多く残る皇后の新羅への出征時および凱旋時の対馬寄港の伝承であり、凱遷時に国防祈願をしたという八幡宮の存在である。そうした話を神社の由来として伝えるのが、かつて木坂八幡本宮と呼ばれた海神神社であり、木坂から遷された厳原八幡宮である。この二つの神社には神功皇后の凱旋時にまつわる酷似する伝承が残されており、全体の物語の構成としても不自然さがないことに、リアリティーという点で注目したいところである。



神功皇后の新羅征伐に係る対馬に関する「紀」の記述は以下の通りである。



【神功皇后(摂政前紀 仲哀天皇99月―10月) 「神助により新羅親征」】

「冬十月の己亥(キガイ)の朔(ツキタチ)にして辛丑(シンチウ=3日)に和珥津(ワニツ)より発ちたまふ。時に飛廉風(カゼノカミカゼ)を起し、陽侯浪(ウミノカミナミ)を挙げ、海中の大魚悉に浮びて船を扶く。則ち大風順に吹き、帆舶波に随ひ、櫨楫(カヂカイ)を労(イタツ)かずして、便ち新羅に到る。・・・」との記述。

和珥津(ワニツ):対馬北端、上県郡対馬町の鰐浦。



「神功皇后(摂政元年3月―53月)「誉田別皇子の立太子」の記述のなかで、人質とした新羅の奈勿(ナモチ)王の子、微叱己知(ミシコチ)が奪還される場面で、対馬に宿泊。その時、人質奪還をされた土地の名が「サヒノウミ」の「水門」であると以下の通り登場する。

「〔人質の微叱己知(ミシコチ)と新羅の使者毛麻利叱智(モマリシチ)等と神功皇后が見張りとして随行させた葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)と〕共に対馬に至り、�窶海(サヒノウミ)の水門(ミナト)に宿る」



「紀」の注では、『「�窶(サヒ)」は「鋤」に同じく農耕具で、鋭利な武器でもあったか。鰐はその鋭利な歯から、「サヒ持ちの神」(古事記)といわれたことの連想によるか。』とあり、「サヒノウミの水門」は「和珥津」と同地と推定している。



但し、「対州神社誌」の「府内」の「(厳原)八幡宮」の厳原町久田道字宝満山に鎮座する「村社・與良祖神社」の「明細帳」(注)において、「山幸海幸の説話の(注)に、『海宮は津島の事なり。小船の着しは津島下県郡鴨居瀬村の東海瀬戸なり。爰(ココ)に小島あ、此島南北に連流し、此小島と鴨居瀬との間に瀬戸あり。�窶(スキ)の水戸と云。春気を受け紫藻を生ず。紫瀬戸と云。津島の東海絶景の第一とす』とある。



 これによれば、「紀」による人質奪還の場所、「�窶海の水門」は、現在の鴨居瀬の住吉神社の建つ場所ということになる。



 このように新羅征伐の一連の記述の中で、対馬は新羅征伐への出立地及び凱旋後の新羅からの人質を奪還された場所として、北端の港である「和珥津(ワニツ)」や鴨居瀬とも推定される「�窶海の水門」の名が登場するのみであり、凱旋時に国防祈願として造営した八幡宮に関わる話は、「紀」のなかにおいては一切言及されていない。



その一方で、巷間の伝承などを参考としたであろう「対州神社誌」や「海神神社神社明細書」に「木坂八幡本宮」、「明細帳」に「(厳原)八幡宮」の由緒が詳述されている。



(海神神社概略)

    住所:峰町木坂247

    社号:「対州神社誌」に「八幡宮」、「大小神社帳」に「木坂八幡本宮」とある。厳原の新宮に対し、本宮と呼ぶ。明治時代までは八幡宮と称していた。明治3年に、和多都美神社と改称し、さらに明治6年に海神神社となる。

    祭神:応神天皇・彦火火出見尊(山幸彦)・仲哀天皇・豊玉姫(山幸彦の夫)・武内宿禰

    由緒(対州神社誌より)

藤仲郷は「対州古蹟集」の中で、この八幡宮を「日本八幡宮の旧本社なり」と主張している。当神社の由来書によれば、次記の通り。



「神功皇后御征韓の役を終わらせ給い、帰途対馬をよぎらせ給う御時、佐賀の浜に八幡を建て給い、木坂山に鰭(ヒレ)神を祭らせ給う」とある。そして「津島紀事」に「皇后は佐賀の浦に斎庭をしつらえ、三韓出征の折、宗像神から授かった『振波幡』、『切波幡』、『振風幡』、『切風幡』、『豊幡』、『真幡』、『広幡』、『拷幡』の八旌の旌旗と鈴とを浜辺に張り巡らし捕虜の釈放(放生会の始め)や矛舞など凱旋の祝いを行った。次いで八旒の旗をこの地に蔵し国土守護の『うけひ』をせられた。仁徳天帝癸丑の年に、佐賀八旒を木坂に遷して廟主となし、神功皇后を奉祭しこの社を一宮と称した。さらに継体帝丁亥の年には、応神天皇以下の神を木坂の伊豆山に奉祀し、この神功・応神両神廟を八幡宮と称えた」とある。

「津島紀事」とは、対馬府中藩士の平山東山(ヒラヤマトウサン17621816)が郡奉行の任にある時、視察のため来島した幕臣土屋帯刀(タテワキ)に命じられて対馬の史誌を編修し、幕府に提出したもの。

    一宮を木坂伊豆山に奉祀した由緒(海神神社神社明細書より)

「神功皇后新羅より還御の時対州西面の要害を御船より巡検し給ふ時、木坂山を叡覧ありて、此の山は神霊強き山なり、彼の山頭に鰭神等祭祀し異国降伏祈らんと宣ひ、武内大臣を奉じ、神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め、斎き祭り給ふとなり」とある。これは、厳原の八幡宮(新宮)の清水山由緒に同種の記述あり。



    さらに、藤仲郷は「対州古蹟集」の中で、「皇后征韓の時、供奉の御旌八旒を此州に留玉ふを廟主とす。其の鈴二口宝とす。〔八旒の旗の内〕二口は府〔厳原〕の八幡宮に分置し、二口は豊前宇佐宮に分ち、又二口は黒瀬城〔現・金田城〕に納むと。今、州(対馬の)中に伝もの六口也」と、述べている。



    「仁徳天皇の御宇、異国の賊船数百艘西方海上に顕れた際、木坂の伊豆山の頂より神風が強く吹き起こり、異船ことごとく行方知れずになった」との言い伝えがあるが、後に白髪翁が現れて、「是即ち気長足媛尊(神功皇后)の祭り置せ給ふ国主和多都美の御神霊の為す所よと喜ひて」(海神神社明細書)と、仁徳紀に八幡と鈴が木坂に遷された由縁が分かる。さらに国府(厳原)と黒瀬と宇佐へと鈴と八旒が遷された。これに関連して、現在、八幡宮の総本社とされる宇佐由緒では、欽明天皇三十二年に八幡神が現れたとなっている。



    統一新羅時代(8世紀)の銅造如来立像(国の重要文化財)が収蔵されている



    大小神社帳に、境内社として本殿左に建つ五宇が紹介されている。即ち、一ノ宮(祭神:神功皇后)・若宮(同仁徳天皇)・新霊(同菟道皇子)・軍殿(同日本武尊)・瓊宮(ニノミヤ・同豊姫霊)。この5社は「官社」であると記載されている。

また、木坂八幡本宮は古くは「和多都美神社」又は「上津(カウヅ)八幡宮」と号したとある。

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