7月21日発売の週刊文春で、『鳥越俊太郎都知事候補 「女子大生淫行」疑惑 被害女性の夫が怒りの告白』との記事が掲載されている。


週刊誌を読まぬわたしもつい、文春のWEBサイトで確認した。すると、冒頭のタイトルの下に、次のように書かれていた。


「君の誕生日パーティーをしよう」。キスの経験もない20歳の大学生を富士山麓の別荘に誘い込んだ鳥越氏は二人きりになると豹変したという。都知事候補の資質を問う。」


この疑惑自体は14、5年前のことのようで、当時評判の月刊誌「噂の真相」にも掲載されたとのことで、一部ではよく知られた話なのだという。


わたしは週刊誌を買ってまで記事を読もうとは思わない。ただ、人気バンド「ゲスの極み乙女」のボーカル川谷絵音との不倫を暴かれたベッキーと鳥越氏との立場は根本的に異なっており、こうした応酬があるという事実を選挙民に伝える必要はあると考える。


甘利経産大臣の金銭授受問題や育児休暇取得で脚光を浴びた金子恵美衆議院議員の夫・宮崎衆議院議員の不倫報道などスクープを連発している文春の記事である。耳目が集まるのも不思議はない。


しかし、テレビ各局が永田町ネタの甘利、宮崎問題につき連日報道を繰り返し、ベッキー不倫でもこれでもかというほどに面白おかしく伝え(さすがにベッキー不倫はNHKはなかったかな)、舛添要一にいたっては記者会見の実況を、都度、流し続けるなどしたことを思い起こすと、今回、テレビ各局が示し合わせたように沈黙を守っていることは異様である。


現在がまさに都知事選挙の真っ最中であり、公職選挙法に抵触する恐れがあるとの判断が働いているであろうことは推測はできる。
実際に7月21日、週刊文春は鳥越氏の弁護団により名誉毀損と公職選挙法違反の疑いで東京地検に告訴された。

選挙期間中、各候補者に対する報道は公平であるべきである。しかし、実際問題として21人もの候補者が立った都知事選で公平を期すといっても、そこは良識の範囲で報道をしていくことで対応していくしかないし、現実に各TV局もそうした方針のように見受けられるし、国民もそこは目くじらを立てる気持ちもない。

ただ、本件が非常におかしな報道姿勢に見えるのは、選挙民が知るべき重要な事実を伝えることをテレビ局が放棄している、いや、わざと最近流行りの“報道しない自由の権利”の行使をしているように思えてならないのである。

わたしは鳥越俊太郎都知事候補の女性淫行を事実として伝えろと言っているのではない。民放テレビ各局とは異なり、入念な取材をもとに記事にし(たと言われている)、それなりの果実を獲得してきた昨今の週刊文春である。

その週刊誌が「都知事候補の女性淫行疑惑を報じた」ということは重い事実である。
そして、その記事に対し、候補者の弁護団が刑事告訴をしたことも事実である。

ただでさえ都政の政策を具体的に語らぬ候補であり、その是非が判断できぬ。まずはこの二つの事実を伝えることは選挙期間中であるからこそ必要なのだと考える。選挙民にとって、この人物が都知事としての資質があるか否かを判断するうえでの重要な情報のひとつとなるからである。

わたしも民放テレビをかじりつくほど観ることはない。ただ、TBSの情報バラエティ“ひるおび”はちょうど昼食時でもあり、NHKニュースのあとによく視聴する。

また、日テレの情報ライブ“ミヤネ屋”も舛添問題など事実確認をしたい時などは、都知事会見の実況中継をしておりずいぶんと重宝する番組である。

そんなテレビ各局もこの鳥越問題については一度は報道したのかも知れないが、先の甘利・宮崎・ベッキー・舛添の電波の使用時間に比較し、雲泥の差、先の例の扱いと比べれば一切、報道してない、意図的に無視しているに等しい。これが与党候補者の疑惑であったら、またジャーナリスト出身者でない候補者であったら、民放各局はどんな対応をしたのであろうか。

そんな鳥越都知事候補の女性疑惑、下卑た興味から申し上げるのではない。

まさに文春がタイトル下のキャッチで「都知事候補の資質を問う」と述べているように、そうした疑惑があるのであれば、事実無根だと告訴をしたのであるから、これまでジャーナリストと称してきた、そして、政治家として立候補した鳥越俊太郎なる人物は自らの口、言葉で選挙民の前でちゃんとした情報開示をし、説明を堂々とするべきなのである。

一方で、それを避けまくる鳥越候補に対し、なぜしないのだともっと詰め寄り、それにも応じないジャーナリストとも思えぬ男に、テレビ各社はしつこくテレビ画面で訴えるべきなのだ。

21日、街頭演説を終えた鳥越候補に取材陣がコメントを求めても、「私の法的代理人である弁護士に一任している」とのみ言い残し、逃げるように去っていったというではないか。

これが都知事を目指すジャーナリスト出身の政治家だといえようか。

そして、この文春記事について、「(この時期にこの記事が発表されたことには)何か政治的な大きな力が働いたと感じたと発言したことにつき数度の記者の問いかけに対してはジャーナリストと称する人物としては驚くべき答えが返ってきたのである。

理由は何もありません。僕のです。私は51年間この仕事をしてきて、直感をいつでも働かしながら仕事をしてきたので、直感である程度そういうことはあるかもしれないなと思った次第」

そして、極め付けが続くひと言。

それは何も事実があるわけではありませんので、こういう事実があるからこうだというつもりは全くない
と、言ってのけたと新聞は伝える。

いやはやもう呆れるしかないというより、この男はこれまでよくぞ言論の世界で曲がりなりにも生きて来られたな、それほど日本の言論界、ジャーナリズムは低レベル、大甘なのかとまさに開いた口がふさがらないとはこのことだが、こうした発言、自分が触れられたくない問題についての対応のあり方などが、リーダーたる資質を判断するに際しての大切な要素なのである。

こうした視点で今回の問題をとらえた時、テレビ各局が日ごろ国民の知る権利だと声高に叫ぶその知る権利とはいったい何を指しているのか、誰に伝えるために知らなければならぬのか。自分たちにとって都合の悪いことは報じたくない、調べない、追及しないでは、その知る権利、報道の自由といった居丈高に叫ばれる言葉は鴻毛のごとく軽く、あまりにも虚しい。

わたしはかねてから我が国のジャーナリズムのレベルの酷さ、身内にごく甘の体質はことあるごとに一刀両断してきたところである。

しかし、これはひどい、このレベルはひどすぎる。ジャーナリストとして51年やってきたと豪語する鳥越俊太郎という人物然り。この女子大生淫行疑惑の週刊誌・候補者双方の応酬を伝えぬテレビ局然りである。

また、これが野党四党の自信をもって推薦した候補かと思うと、参院選の一人区で相応の効果があったとされる政策合意なき野党連携もあまりにお粗末、はや馬脚をあらわしたのだと断じるほかない。