神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―1)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)


【神功皇后 摂政五年三月「誉田別皇子の立太子」】―(B)


「五年の春三月の癸卯(キボウ)の朔にして己酉(キイウ)に、新羅王、汗礼斯伐(ウレシホツ)・毛麻利叱智(モマリシチ)・富羅母智(フラモチ)等(ラ)を遣(マダ)して朝貢(ミツキタテマツ)る。仍(ヨ)りて、先の質(ムカハリ)
微叱己知(ミシコチ)伐旱(バッカン)を返(トリカエ)さむといふ情(ココロ)有り。是を以ちて、許智伐旱に誂(アトラ)へ、紿(アザム)かしめて曰(マヲ)さしむらく、「使者汗礼斯伐(ウレシホツ)・毛麻利叱智(モマリシチ)等、臣に告げて曰く、『我が王、臣が久しく還(カヘ)らざるに坐(ヨ)りて、悉くに妻子(メコ)を没(オサ)めて孥(ツカサヤツコ)と為せり』といふ。冀(ネガ)はくは、暫く本土(モトツクニ)に還り、虚実を知りて請(マヲ)さむ」とまをさしむ。皇太后、則ち聴(ユル)したまふ。因りて、葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)を副(ソ)へて遣したまふ。共に対馬に到り、鋤海(サヒノウミ)の水門(ミナト)に宿る。時に新羅の使者毛麻利叱智等、窃(ヒソカ)に船と水手(カコ)とを分(ワカ)ち、微叱旱岐(ミシカンキ)を載せて新羅に逃れしむ。乃(スナハ)ちクサ霊(ヒトカタ)(注3)を造り、微叱己知(ミシコチ)の床に置き、詳(イツハ)りて病人(ヤミヒト)として、襲津彦に告げて曰く、『微叱己知、忽(タチマチ)に病みて死(ミマカ)らむとす』といふ。襲津彦、人を使して病を看しむ。即ち欺かれしを知りて、新羅の使者三人を捉(トラヘ)へ、檻中(ヒトヤ)に納め、火を以ちて焚(ヤ)きて殺しつ。・・・

 

と、新羅征服の際に新羅の実聖王が先代の奈勿王の皇子を人質(注2)として差し出したことが記され(A)その後、新羅王が、人質奪還を企てたことが記載されている(B)このA・Bの記述に着目して、「紀」の歴史書としての価値を評価し、三韓併合の事実云々につき考察を試みる。

 

(注1)         人質の人選(奈勿王の皇子)については、実聖王がかつて即位前、自身が奈勿王により高句麗へ人質に出されたことへの報復とも考えられるとの見方がある。

(注2)         クサヒトカタ:茅で作った人形。「礼記」檀弓の鄭玄注に「クサヒトカタは茅を束ねて人馬を為(ツク)る。之を霊(ヒトカタ)と謂ふは、神の類」とある。

 

(A)で神功皇后により征服されたとされる新羅王「波沙・寐錦(ハサ・ムキチ)」が、『三国史記』「新羅本紀」にある第5代「波沙・尼師今」(在位:西暦80112)の名と一致しており、互いの歴史書において双方の記述の信憑性という面での結節点ともなるべき具体的な人物名である〔「尼師今」は「寐錦」と同義で「王」の意〕。

 

・一方で、『三国史記』「新羅本紀」には、実聖尼師今(新羅第18代・実聖王)元年(402年)三月条に、「倭国と好(ヨシミ)を通じ、奈勿王の子未斯欣を以て質と為す」と、(A)と平仄の合う記述が存在する。ただ、『三国史記』は未斯欣を人質として差し出したのは実聖王元年(402年)としており、「三国遣事」は第17代・那密王(奈勿王)三十六年庚寅の年(391年)となっており、人質を差し出した王および年号が異なる形で記録が残されている。

 

また人質奪還について、『三国史記』は、巻三・訥祇(トギツ)麻立干(19代訥祇王:在位41745817代奈勿王の皇子)二年(418)条の「秋に王(訥祇王)の弟未斯欣、倭国より逃れ還る」と記述しており、年代的ズレはあるものの、そうした事実があったことについて、「紀」の(B)の記載と見事に対応している。しかも、(B)の記述の赤字の部分などは、国の正史としてはリアリティに溢れ、この事件が実際にあったとしか思えぬ具体的で詳細な描写となっている。

 

さらに、人質拠出の年代を「三国遣事」の391年と考えると、実は、かの有名な好太王(高句麗第19代広開土王)碑に刻まれる『百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民』の碑文、即ち、『そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。』とする新羅侵寇の年号、西暦391年に合致する。そのことは、「倭による新羅征服或いは侵寇」は絵空事であったとするより、事実である可能性が高いとする方が、文献上からは妥当であると考える。

 

ただ、彼我(日韓)で異なる部分の記述で、征服時の新羅王の違いからくる年代の違いが大きく、その点の問題は残る。即ち、「紀」では、第5代「波沙尼師今」(在位:西暦80112)、『三国史記』では実聖王元年(402年)、「三国遣事」は那密王(奈勿王)36年(391年)とあり、そこに300年ほどの大きな誤差が存在する。また、神功皇后が在位(201269)したとされる年代とも100年以上の差異があるが、「2運」下げした年代(321389年)を採用すると、それも誤差の範囲に入って来る。

 

その年代の誤差については、日韓史書のその他の記述との平仄を見る限り、この新羅王の「紀」の名前が誤記されたのだと考えるしかない。

 

 

3. 結論---神功皇后は実在した
 
 そして最後に、そもそも「神功皇后は実在したのか」であるが、日韓の文献や好太王碑文から新羅征服或いは侵寇の可能性が高いのであれば、倭に大軍事作戦を指導した王がいたとするのは、自然なことである。

 

 その指導者が女性であったか否か、しかも神功皇后という人物であったのかは、『三国史記』や好太王碑にも、一切、記述はない。ただ、「紀」の取り扱い方や、まさに対馬や壱岐、北九州に残された幾多の伝承の存在から、そうした女性の「大王」が存在したことは、限りなく史実に近いとするのが妥当である。また、神功皇后の出身は「息長氏」であり、「息が長い」氏族から、「潜水漁労」や鞴(フイゴ)を吹く「蹈鞴(タタラ)・製鉄」に関わる一族であったとの説もあり、神功皇后説話のなかに海人族に関わる話(住吉三神・阿曇磯良)が多いことも、実在を補強する材料とも云えるのである。