「障害者自立支援法に矛盾を見る高校生」

 

 東京新聞24日朝刊の「わかものの声」に滋賀県湖南市の高校三年生田中博子さんの自立支援法に対する投稿があった。ボランティアを経験し、同法の矛盾について抱いた若者らしい感想が出ていたので紹介したい。

 

『この間行ったら仲間(作業員さんのこと)が減っていたのです。それは四月一日から施行となった「障害者自立支援法」のせいだと先生がおしえてくれました。この悪法のせいでその作業所に働きに行くだけでお金をとられるのです。しかも、その施設利用料は給料より高いのです。なぜ働きに行ってお金を取られなくてはいけないのですか?それは国による「障害者に対する差別」ではないのですか。それならば政治家の皆さんも国会に行くたびにお金を払うべきではないですか。老人、シングルマザー、障害者…この国は弱者に対する悪法が多すぎませんか』。

そして、

『私は日本が好きです。だから日本がもっといい国になってほしいです。まだ社会のことを、なにもわかっていない私にさえわかる「おかしいこと」が今おこっているのです。これ以上仲間が減らないように助けてください』

と、結んでいる。若者のみずみずしい実体験に基づいた感受性豊かな意見であると感心もし、厚労省の役人、永田町の政治家に博子さんのこの投稿を是非、読んで欲しいと思った。

 

この障害者自立支援法の「自立」、「支援」と、応益負担との理屈で、作業所に通うと費用負担がかかることの「矛盾」を田中さんは、非常に素直に感じ取っておられる。こうした若者が何かおかしい、誰のための法律かと感じた事実は大きい。しかも、その受けた実感をこうした投稿という形で、世に知らしめ、素朴な疑問を社会に問いかけることの意義は大きい。

 

 さて、内閣府の組織のなかに政策統括官という各省庁の政策を横断的に調整・推進することを職務とする組織がある。縦割り組織の官僚機構の政策を横断的・一元的に行なおうとする目的で設置されたものであろう。その政策統括官は七つの職務分担に分かれ、そのひとつに共生社会政策担当統括官というポストがある。

 

共生社会政策統括官は、青少年の健全な育成、少子・高齢化の進展への対処、障害者の自立と社会参加の促進、交通安全の確保などに関し、行政各部の統一を図るために必要となる事項の企画及び立案並びに総合調整に関する事務等を掌握していると政府広報にはある。H176月には、共生社会政策統括官により「共生社会形成促進のための政策研究会」報告がなされた。そこで、副題とも言うべきだが、提唱されたのが「共に生きる新たな結び合い」というフレーズである。

 

しかし、よ〜く思い起こしてみると良い。

 

共生社会の実現化については、既に、H7年に内閣府障害者施策推進本部で作成された「障害者プラン――ノーマライゼーション7ヵ年計画」に謳われていた。そして、平成14年度がその最終年度であったので、そのノーマライゼーション計画の第一項、第二項に掲げられた

「地域で共に生活するために」

「社会的自立をするために」

の政策目的は、相応の成果があがっているはずである。というより、共生社会が出現し、その次の新しいステージへ障害者施策は移っているはずである。

 

  ノーマライゼーション」とは、

これまでの福祉が、障害者を一般社会から引き離して、特別扱いする方向に進みがちであったのに対して、すべての人が、同じ人として普通に生活を送る機会を与えられるべきであるという福祉の考え方である。

 

 わたしが、なぜ10年以上も前の政策を持ち出したか、皆さんには分かっていただけると思う。国は政策目的が果たせなかった同じことを、また麗々しい文言で飾りつけ、再び行なおうとしているからである。そして、今回は障害者の人たちの、自立を支援するより、自立を阻止する法律まで用意して、この十数年、何も具体的に共生社会がわたし達の身の回りに出現した実感もないのに、この十年の政策の検証もないまま実施しようとする。そして、今度は共生どころか、障害者の自立の道すら閉ざそうとする政策を推し進め始めたのである。

 

 ノーマライゼーション」が聞いて呆れる。あまりにも貧相な心を持った国家ではないか。高校三年生の田中博子さんの感受性のひとかけらでも、永田町、霞ヶ関の人間たちが持っておれば、こんな「アブノーマル」な社会にならないのにと強く感じた。