46日に「放送局自らが捏造の事実を認め、国民生活への影響があることを認めた場合には、総務相が再発防止計画を該当放送局に対し要求できる」などとした放送法改正案が閣議決定された。

その発表を受けて放送業界をはじめとしたメディアは、案の定、「表現の自由」・「報道の自由」を脅かすものとしていっせいに政治介入を懸念する非難の狼煙(のろし)を揚げた。

 

 ただしその懸念に対しては「放送倫理・番組向上機構(BPO)による再発防止策が機能している間は発動しない」ことを総務相が国会答弁において言及することで、一応の決着を見た形となっている。

 

 テレビ局では関西テレビの「発掘!あるある大事典供廚隣埖と覚後も、TBSの「朝ズバッ!」において不二家問題を扱う特集(122日放映「新証言不二家のチョコ再利用疑惑」)で捏造疑惑が浮上した。そして不二家第三者に依頼し設けられた信頼回復対策会議の郷原信郎議長(桐蔭横浜大学法科大学院教授・コンプライアンス研究センター長)が330日、46日と記者会見を開き、同局の捏造疑惑について「捏造の可能性」の裏づけとなるメモやテープを公開して、「同番組の不二家バッシング報道は、単純な誤解、無理解の域を超え、意図的に不二家の信用を毀損しようとする意図すらうかがわれる」と非難し、「不二家とTBSだけの紛争でなく、メディアと企業社会全体に関わる問題だ」と述べ、TBS側の不誠実な対応を批判した。

 

TBSは「朝ズバッ!」の報道について「正確性を欠くものだった」と認める一方で、「(従業員とされる人物の)証言の根幹部分については、信用できる根拠がある」と断言するだけで捏造疑惑調査に本腰を入れる気のないTBSの態度を見ていると、今回の放送法改正につき放送事業会社が「表現の自由」への政治介入の懸念を訴えること自体、どうしても素直に「ハイそうですね」と、うなずくことができないのである。

 

 もし放送事業者がいう「(捏造問題の類の問題が発覚した場合は)BPOという第三者機関によるチェックと自浄作用をまずは働かせるのだ」と強調するのであれば、みのもんた氏の「朝ズバッ!」の不二家特集の捏造疑惑について、即座に放送番組委員会の有識者委員会は調査を開始しているはずである。

BPOHPでは「委員会議事のあらまし」として各委員会の議論の概略が報告されているが、直近で掲載されているのは、2月2日に開催された今年度第10回番組委員会の『発掘!あるある大事典』問題の議論までで、不二家特集捏造疑惑が浮上した3月下旬以降、それに関する調査委員会が発足したとも、有識者会議でその問題を集中審議しているとの記述もないし、話も一切、聞こえてこない。

 

 また民放連なり当事者たるTBSが、BPOに対し調査依頼をしたとの話も聞かぬ。不二家の信頼回復対策会議の郷原議長がメモやテープを公開してわざわざ記者会見まで開いて、TBSの捏造疑惑を訴えているのにである。こうした疑念に素早く対応を取ることこそ、放送法改正に慎重であらねばならぬとする放送事業者が、いままさに自浄作用として行動を起こすべきことなのではないのか。

 

BPOによる再発防止策が機能している間は」とか「表現の自由が心配」とは、放送事業者もよくぞ言ったりである。現に足許で事実と異なるかも知れぬ報道がなされた可能性を指摘されているにも拘わらず、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる放送事業者たちに、自浄作用など期待すること自体が、こうした危機意識のない対応を見ると無意味で論外なことなのかも知れぬ。

 

 そしてもっと重要なことは、「表現の自由」の重みを真摯に考えているとは思えぬ放送事業者の姿勢そのものに、大きな懸念を覚えてしまうことである。これまでも何か一朝事ある時は、彼らメディアは「表現の自由」というお題目を殊更に声高に叫んできた。

 

しかし「表現の自由」は放送局、メディアだけの専売特許でないことは明らかである。まさに国民ひとりひとりの基本的人権のひとつである。

 

 いま放送事業者をふくめメディア界がいろいろ起こす番組捏造や不祥事により放送法の改正といった形で政治介入の素地を作っていっていることが、国民の「表現の自由」と表裏にある「知る権利の自由」という基本的人権の基盤を危うくしていっていることをメディア界は自覚しているのか。本来、強い自責の念をもつべき問題なのである。

 

国民への背信行為を行なっているのだという自覚が放送事業者いやメディア界全体にまったく欠けていることに、度し難いメディアの傲慢さを感じ、権力が牙を剥く恐怖への彼らのあまりの鈍感さに対しわたしは唖然とし言葉を失ってしまう。

 

メディア界が国民の「表現の自由」と「知る権利の自由」そのものに足かせを嵌(は)めていっているのだという自責の念すら感じていないところに、本当にこの国のメディア業界の質の低さを実感せざるをえないのである。