「障害者自立支援法による障害者いじめという矛盾」
平成18年7月15日(土)の東京新聞朝刊で不定期に掲載される「からむニスト」にベリー荻野氏が「この四月から施行になった障害者自立支援法が抱える大きな矛盾と障害者という弱者が追い込まれていく」様子に、素朴で素直な感想を述べているので、以下にその全文を転記させていただく。
『NHK教育「福祉ネットワーク」を見ていて、驚いてしまった。その日のテーマは「障害者自立支援法3ヵ月」。
私がびっくりしたのは、福祉施設などで仕事をしていた人が、職場を去るケースが増えているという現状だ。この法律では、福祉施設などで働くと「施設利用料」を障害者本人が負担しなければならない。番組のケースでは、一ヶ月四万円程度の収入があった人に対して、七千五百円の負担がかかっていた。
一方的に解釈すべきではないかもしれないが、「ここで働くなら利用料を払いなさい」ってこと?一般企業ならありえない話で、働いて自立したい人を「支援」することになるのか?
この点は番組でも問題視されていた。私たちは、だれでも障害を負う可能性がある。こういうテーマは、もっと一般のニュースなどでも取り上げるべき。関心を持たないと、知らないうちにいろんな法律が成立しちゃう可能性だって、あるわけだからね。』
わたしの娘はダウン症という生まれながらにしての知的障害者である。今年で25歳になった娘に、また新たな将来への不安が生まれたのが、このベリー荻野氏が言っておられる「障害者自立支援法」という看板を掲げた羊頭狗肉の法律の施行である。
わたしはこの約三年にわたり社会福祉法人の設立に関わってきた。娘の将来の生活不安と自立に備えるためである。幸いにもその努力が実り、昨年、新しい社会福祉法人の設立が認められ、会館(作業所)建設にかかる国庫補助金の交付も決定を見た。これで、私たち親が死んだ後も、娘は国と障害者指導に携わる職員やボランティアの人たちに助けられながら、法律の庇護の下、何とか人生を全(まっと)うできると一安心というか、一息ついたところであった。
しかし、郵政解散(2005.8.8)を機に、一旦は問題が多いとして廃案になった「障害者自立支援法」が、総選挙後の与党の圧倒的多数の政治情勢の中で、成立を見た。一般にはほとんどその法案審議に関心は払われていなかったが、理解力のある障害者、障害者を抱える家族、福祉業界に携わる人々たちなどはその帰趨に重大な関心を払ってきた。そして、世間の関心をほとんど買うこともなく、この法案は2005.10.31に衆議院本会議で起立多数で粛々と可決・成立した。
健常者(福祉用語で障害のない人のことを指す)と異なり、企業への就職が非常に難しい障害者は、ただでさえ社会や家族の支援なくして自らの生活を自らの力で営んでいくことは至難の業である。特に健常者ですら、ニートやフリーターという実質失業者の増加を見ている社会情勢では、障害者が自立生活を営んでいく自体、これまでも無理な話であった。
そうした中で、この四月から「障害者自立支援法」は施行された。
その第一章、第一条の総則で、次のように「目的」が謳われている。
「この法律は、障害者基本法の基本的理念にのっとり、他の障害者及び障害児の福祉に関する法律と相まって、障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付その他の支援を行い、もって障害者及び障害児の福祉の増進を図るとともに、障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とすること。」
その理念は机上のものとして理解され、その志は高いと言ってよい。しかし、具体的な条文に入り、複雑な仕組みが明らかになっていくにつれ、自立すべき収入の道が閉ざされた障害者に、その自立への支援サービスを受けることに対する応益負担という考え方が盛り込まれていることなど、この法律が実態としては、赤字財政を手っ取り早く改善するひとつの算段であったことがわかる。世間の関心も薄く、声の小さい障害者という弱者にしわ寄せをして、その一助と成そうとする余りにも冷徹な為政者の魂胆が透けて見えるのが、悔しく、そしてせつない。因みに私の娘のひと月の(授産施設での)賃金は一万円である。それでも、娘はお給料日が近づくとそれを指折り数えて待っている。その嬉しそうな姿を目にするたびに、親として胸が強く締めつけられる。この自立支援法がこのままでは、憲法に云う「第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と、麗々しく謳われている国民の「権利および義務」とは、一体何なのか、この国の根幹にある人権尊重の精神とは何なのか悩まずにはおれないのである。