讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)

1 石清尾山古墳群を代表する積石塚古墳とは


高松市の中心市街地の南西部に位置する石清尾山(標高232m)や紫雲山(同200m)などを擁する石清尾山塊の尾根上に4世紀から7世紀にかけて造成された200余基におよぶ古墳群が存在する。

1・石清尾八幡神社の後背に石清尾山を見る
石清尾八幡宮の鳥居から石清尾山山頂を見る

そのなかでも有力な古墳のほとんどが弥生時代後期(3世紀後半)から古墳時代前期(4世紀)にかけて築かれた積石塚という墳丘を石で積み上げた特殊な形態の古墳である。


その形態がよくわかる積石塚の代表例が善通寺市の有岡古墳群にある野田院古墳(3世紀後半)である。積石は後円部にみで、前方墳は盛土となっている。

2・善通寺・野田院古墳
積石塚の野田院古墳(全長44・5m 前方後円墳・3世紀後半)

全長44・5mという大規模な前方後円墳はこの善通寺一帯を支配していた豪族の首長の王墓とみられるが、標高616mの大麻山(おおさやま)北西麓の瀬戸内海を一望する高所(405m)に築かれている。

0・野田院古墳から瀬戸内海を一望
野田院古墳から瀬戸内海を一望

1700年前もの昔にどうしてこんな山の稜線上の高みに墓所を構えなければならなかったのか。


これから見る石清尾山(いわせおやま)古墳群の積石塚も野田院古墳同様に見晴らしの良い山の稜線上に造営されていることと考えわせ、その理由を探ってゆくことにする。


その善通寺市の有岡古墳群から坂出市の積石塚古墳群、その東方の石清尾山古墳群と讃岐平野を東西に貫き、3世紀後半から7世紀前半にかけて築かれた古墳群の大規模な集積が認められる。

善通寺市の王墓山古墳
有岡古墳群の中央部に位置する王墓山古墳(全長46mの前方後円墳・6世紀半ば)

そのことは、古墳時代の初期において大和王朝はまだ一地方を統べる時代であり、この一帯に勢力を張る確かな王朝が存在していたことを物語っている。


この讃岐王朝の特色ともいえる大規模な積石塚古墳は讃岐の他には長野県の松代市大室古墳群(6−7世紀)に、小規模なものでは徳島県、兵庫県に例が見られる程度で、国内においてはかなり特殊な位置づけの墳墓形式となっている。


ただ、国外に目を転じれば高句麗の首都・扶余(現在の中国東北地方集安県)に多くの積石塚が存在するほか中央アジアにも存在することから、遊牧民あるいはそこから派生した騎馬民族の墳墓形式とする見方もできる。


因みに朝鮮の古代国家・新羅の古墳群が慶州に存在するが、その形式は円墳である。第13代王である未鄒(ミチュ)王(在位 262−284年)の墓をはじめ23基もの円墳が集まる大陵苑の写真が下である。

4・慶州の大陵苑古墳群
慶州の大陵苑古墳群

高さは20数メートルにもおよぶ小高い丘のように見えるものが固まって造営されている。形状は円墳が基本的なものだが、皇南大塚のように円墳が二つつながった双円墳も変化形として存在する。


さらに、最近では、前方後円墳が日本独自の古墳形式だとするこれまでの学説を翻すかのように、前方後円形の積石塚古墳が扶余の周辺で数多く発見されている。


大和王朝を中核に据え続ける唯我独尊の日本考古学をひっくり返す発掘・発見が大陸においては既になされているのである。


つまり類似した墳墓形式を有す部族が朝鮮半島や中国北東部から渡来したという見方を裏打ちする、前方後円墳という墳墓形式が日本独自のものではなく、大陸にも存在していたという事実である。


そうした大陸の墳墓形式の系列に属するとみられる日本で珍しい形態の積石塚古墳を有する石清尾山古墳群をこれから紹介していこうと思う。