信州の鎌倉 その1=塩田平
信州の鎌倉 その2=北向観音堂
信州の鎌倉 その4=常楽寺
信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺
信州の鎌倉 その6=中禅寺・薬師堂(重要文化財)
上田市別所温泉2361
崇福山安楽寺は別所温泉の北端のあたり、北向観音堂から北西に300mほどの至近に位置する。そして、古来、常楽寺、長楽寺(現存せず)とともに別所三楽寺と称されてきた。
その沿革を探ると、奈良時代の天平年間(729〜749)に行基が建立したとも、いや天長年間(824〜834)に開かれたといった伝承が残る古刹であるが、その詳細は不明である。歴史上の記録としては、臨済宗をこの寺にもたらした樵谷惟仙[しょうこくいせん]の絡みで寺名が出てくるのが初めてである。惟仙は1246年、宋より帰国し、安楽寺を臨済宗の禅寺として開山した。宋から同じ船で入国した鎌倉の建長寺の開基(1253年)である蘭渓道隆との交流により、その名が歴史に記されるところとなった。
参道から山門を見る
山門に掲げられた山号の扁額
安楽寺本堂
本堂玄関
御本尊釈迦牟尼像
安楽寺は信州では最古の禅寺である。日本最古の本格的禅寺といわれる京都の建仁寺が1202年の開創であるので(実際の本邦最古の禅寺は、建仁寺の開基でもある栄西が、南宋より帰国し、1195年に開山した福岡市博多区の「聖福寺」である)、それに遅れることわずか44年で、この信州塩田平という小さな盆地に禅寺が営まれたことになる。
木曾の五木の高野槇の大樹
明和6年建立の和様・禅宗様折衷の腰袴鐘楼
そして、禅寺としての安楽寺が開かれた時代の塩田平は、すでに当ブログ「信州の鎌倉 その1=塩田平」で述べたように、「信州の学海」と称される学問と文化の中心地として栄えていたのである。
したがって樵谷惟仙は、人も通わぬような草深い土地で荒れた廃寺を再興したのではなく、遠隔地から学問を志す若者たちが集ってくる文化の薫り高い、賑わいの地で、「禅」という新しい学問の息吹を伝える講座を既存の寺・学問所、すなわち安楽寺で開いたとするのが、実際のイメージに近いのではないかと考える。
蘭渓道隆の遺著「大覚禅師語録」の一節にある「建長(鎌倉の建長寺)と塩田(安楽寺)とは各々一刹により、或は百余衆或は五十衆、皆これ聚頭して仏法を学び、道を学ばんことを要す云々」が、往時の塩田平の繁栄を表わしていることも、そう考える重要な要因である。
このように安楽寺は、その後の塩田北条氏の保護とも相俟って、鎌倉時代中期には相当規模の禅寺であったことがうかがえ、しかも別所三楽寺と呼ばれたように、信州学海の巨塔のひとつであったと言ってよいのではなかろうか。
さらに鎌倉末期から室町初期の間に、当時ではハイカラな禅宗様式の八角三重塔という最新式建築物が建立されたことも、往時における安楽寺の格式の高さを表わす証であると考える。
そういう想いでこの三重塔を仰ぎ見ると、明治時代におけるレンガ造りの大学の講堂建築の威容がある種、権威の象徴として若者たちの目に映っていたように、この塩田平が勉学に励む若者たちのエネルギーに溢れた学生の街であった頃、若い学僧たちは、塩田平の西方のちょっと小高い山腹に聳え立つこのハイカラな塔を望見しては、先進文化への強烈な憧れを覚えていたのかも知れないと思った。
北条氏滅亡(1333年)後の安楽寺は一番の庇護者を失うことで寺運も傾き、正確な記録も残っていない
というが、室町時代の天正8年(1580年)頃に高山順京(こうざんじゅんきょう)により再興され、それ以降、曹洞宗の寺院となり、現在に至っている。
そこで境内の奥に足を踏み入れてみて、得心をしたわけである。八角三重塔へ向かう本堂の脇に経蔵があったが、方三間のぬりこめ、宝形造り、銅版葺きの建物のなかに、八角形の朱塗りの輪蔵(回転式の経典書棚)が収められていた。その経典こそが、寛政5年(1783)に、宇治の萬福寺から購入した黄檗版鉄眼の一切経というではないか。 したがって当山は曹洞宗というものの黄檗宗の色合いの濃い禅寺とみなすこともできるのではないかと、思ってみたりしたのである。庫裡の一風変わった屋根型、そして山道を少し登ったところに屹立する八角三重塔の純粋な禅様式を見るにおよび、この寺はやはり遠い鎌倉の時代から中華の先進文化を貪欲に吸収するDNAのようなものを、そもそも身内に内在させた不思議な寺なのだと思ったのである。
そして、安楽寺の本堂の扁額を見て、「あれっ」と思われた方も多いのではなかろうか。わたしは、その禅寺に似つかわしくない極彩色の色遣いに、即座に宇治の黄檗山萬福寺を想い起したのである。信州の盆地に何故か中華の色合いの濃さに触れたようで、奇異な感じに捉われたのである。