2012年秋、保津川下り=乗って知った“便利な豆知識” 朝日の瀬・嵐山まで
2012年秋、保津川下り=乗って知った“知っとくと便利な豆知識” 保津川とは?
2012年秋、保津川下り=乗って知った! 知っとくと便利な豆知識
2012年秋の保津川下り=保津川下り乗船場へ“馬車”に揺られてポッコ、ポコ
2012年秋の嵐山・嵯峨野=“トロッコ列車”で保津川下りに行ってきました!!
夏目漱石が明治40年(1907)に体験した保津川下り。今から100年前の様子が、その名著、“虞美人草”にあざやかに描写されている。
川下りの冒頭は次のようにはじまる。
“浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨より二条に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡に降りた。保津川の急湍はこの駅より下る掟である。下るべき水は眼の前にまだ緩く流れて碧油(へきゆう)の趣をなす。岸は開いて、里の子の摘む土筆も生える。舟子は舟を渚に寄せて客を待つ。”
さすが江戸っ子、坊ちゃん文豪である。啖呵のきいた、リズムのよい名文である。
その保津川下りのコースは105年前の漱石の時代と異なることはない。 “保津川下り公式HP”(保津川遊船企業組合)に分かりやすい図があるのでそこから引用させていただき、下に添付する。
そして保津川下りには、幾多の浅瀬や落差の多い急流を下るため船底が平らな高瀬舟が使われている。
“高瀬舟”と云えば、これまた明治の大文豪、森鴎外の小説である。われわれは近代文学の黎明期に出現した文学界の両巨星とともに保津川下りを始めるというわけである。
てなことで、漱石のいう碧油(“緑色の油を流したような流れ”のことだとか・・・)のなかに105年後のわれわれも高瀬舟に乗って漕ぎだしていった。
午前10時50分の船出である。天気晴朗で空は抜けるように青い。
桟橋を離れてしばらくは、漱石のいうように川の流れは緩やかで、しかも当日は水量が少ないので、船底を擦るのではないかと思うほどに水深が浅い。
岸辺にのんびりとこの船旅を見送ってくれる亀が見えた。悠々と時が流れるようである。
この辺りの川の名はまだ確か“桂川”のはずだが、この桂川にも四国の吉野川や四万十川に架かる橋で有名な“沈下橋”があったことに、少し感激。
その橋の下をくぐるときにちょっと舟が落ち込んだ。乗客がちょっとざわめくが船頭さんはの〜んびり・・・
10分ほどゆったりと行ったところで、右手の土手に京馬車がこれまたポッコ、パッカとのんびりトロッコ亀岡駅の方向に向かっているのが見えた。
左手の石垣のうえに、“保津の火祭り”で有名な“請田(うけた)神社”が見えてきた。
この下辺りが保津川下りの一の瀬とも呼ばれる“宮の下の瀬”である。
少々、白い波が立っています。
この先の山の端が迫った辺りからいよいよ保津峡へと舟は入ってゆく。ここらからが、いわゆる保津川と通称される川となる。
20分ほど下った左岸に大きく立つ “烏帽子岩”がある。角度によって烏帽子の形に見えるのだが、奔り去る舟上からなかなかそのタイミングを見つけるのは難しい。
それを過ぎて3分ほどすると、遠くに自然石を積み上げた一画に保津川の守り本尊である“不動明王”が見えてくる。
縦長の板状の大石にレリーフされた石像である。
この不動明王を過ぎると、“金岐(かねぎ)の瀬”に入ってゆく。舟足も速まり、白く泡立つ波頭も結構、迫力がでてきました。
そして保津川下り最大の名所、高低差2mの“小鮎の滝”に突入する。水路が急速に狭まり、スピードも上がる。
さぁ、あそこが“小鮎の滝”だ。保津川下りで唯一、滝の名称が付けられた場所である。
あぁ、落ちてま〜す。
“キャ〜!”、“オ〜ッ!”と舟客は無意識に嬌声、大声を上げた。
すると船頭さんがすかさず、“これで今日のお客の年齢が分かったなぁ”と云うではないか。無意識に悲鳴を挙げる時、30代までは大体、“キャ〜!”と高く叫ぶのだそうだが、40代を超えたあたりから“ウォ〜!”とドスのきいた叫びに変わるのだとか・・・。皆さんに、いやぁ〜、受けていましたなぁ〜。
綾小路きみまろの上をゆく“名言”でありました。家内も横でこっそりと裏声の発声練習などしておりましたな。まだまだ、色気はありますな・・・
当日は水量が少ないため、ビニールシートも最前列の人たちだけですみましたが、水量が多い時には両サイドの舷側にシートを上げて飛沫から身を守ります。私がこの日浴びた飛沫はズボンが下の写真の程度に濡れただけでした。
良かったのか悪かったのか。やはり、ドバ〜ッと濡れるスリルを味わいたかったというのが本音でありました。
ともあれ、最大の難所の“小鮎の滝”を無事、乗り切り、舟はすぐに次の難所、“大高瀬”へと入ってゆきます。
川幅が狭まり、岩肌を丸太が覆いつくしている様子は、いざという時の舟が衝突した際の被害を防ぐためと思うと、舟の速度、すぐ横を過ぎ去る岩、荒れる飛沫が、いや増しに緊張感を昂めてゆく。
この大高瀬は結構、長い距離で、スリルは十分。最前列の若いカップル二組を除くみなさん、“ウォ〜ッ!!”と
地獄の底から響いてくるような嬌声ならぬ、狂声?をあげていましたなぁ・・・
ということで、急流を凌いだ舟はしばしのんびりと下りまして、水深10mの保津川下りで二番目に深い“殿の漁場”へさしかかった。
ここは、昔、丹波の殿さまが釣りを楽しまれたところで、淵のように静かな水面を見せている。ちょっと不思議な景色である。
その余裕もわずかで、舟はすぐに“”獅子ヶ口の瀬“の急流へと向かってゆく。
また急速に岩肌が舷側に迫り、船頭さんが“舟の縁から手を離して、内側の棒を握ってください”と、声が飛ぶ。これは、結構、危ない、スリリングである。
“獅子ヶ口の瀬”を抜けると、“女淵”と呼ばれる流れの緩やかな淵が遠くに見えてくる。小山のような岩が行く手をふさぎ、川筋がここで大きくUターンする。
この女淵を右にぐるりと回った辺りが、水深の最も深い“曲り淵” (15m)となる。漱石の表する“碧油(へきゆう)”とはこんな色ではないかと思った処である。
こうして曲り淵に達した時が11時30分。スタートして、距離的には大体半分、時間でいうと1/3の40分がかかったことになる。(以下、次回に続く)