復党するのが何故、おかしい!

 

 4日に郵政民営化法案に反対した堀内光雄元総務会長、野田聖子元郵政相ら造反議員11名の自民党復党がなった。11月19日の沖縄県知事選挙で自民・公明が推す仲井真弘多氏の当選を受けて、離党議員の復党問題が本格化した。この2週間余は復党条件について中川秀直自民党幹事長と造反議員の領袖である平沼赳夫元経産大臣との交渉、さらに最後まで郵政法案に反対した平沼氏の扱いの帰趨などメディアは報道の材料に事欠かなかった。11名の復党が成った後も岐阜一区の佐藤ゆかり議員と野田聖子議員の間で繰り広げられる女の戦いが面白おかしく伝えられたり、その後の内閣支持率の急落なども相俟ってこの一連の復党劇騒動は終息するどころか、世間の耳目を集める恰好の題材となっている。この間の報道で復党問題はその本質から離れ、異なったフィールドでこの問題が取り扱われているように見えてならない。

 

そもそも思い起こせば、今回復党に動いた平沼赳夫議員ら衆議院議員12名は「郵政民営化法案」に本会議で反対した反党行為を理由に離党勧告を受け、離党を強いられた議員である。一方、参議院で反対票を投じた22名あるいは欠席、途中退場等で事実上の反対をした8名の処分は、除名2名、離党勧告1名、党員資格停止1年3名、党役職停止1年16名、戒告8名という内訳であった。当時、衆参における処分内容に大きな格差があることに違和感を覚えたことはまだ記憶に新しい。その原因が与野党間の議席数差が少ない参議院で与党議員を離党させることは、現実的には数の論理からできぬ話であったのは想像に難くない。そのご都合主義がこの復党劇にすっきりせぬ陰を落としている遠因であるとも言える。

 

二院制を敷くこの国で「郵政民営化法案」は第162回通常国会の衆議院でわずか5票差ではあるが、通過を見たのである。その後参議院において17票差で否決された結果、時の小泉総理が衆院を解散し、郵政民営化の是非を問う、いわば、「江戸の敵を長崎で討つ」的な総選挙に打って出たのである。小選挙区制度のなかでは反対与党議員のいる選挙区に民営化賛成の候補いわゆる刺客を立てる代わりに、反対議員には公認を与えないことはある面、事の道理であった。このことは郵政選挙の趣旨からして国民に賛否を問うため必要な手当てであったと言ってよい。

 

その結果、自民党は296議席獲得という大勝をおさめ、郵政民営化への国民の判決は下った。第163回特別国会の衆議院において与党議員で法案に反対・棄権をしたのは平沼赳夫議員と野呂田芳成議員の2人のみであった。前回反対した議員の大半は国民の判断に従うとの理由で、最終的には民営化賛成に回っているのである。

 

今回の復党劇の評価はそうした一連の流れのなかで考えていく必要がある。

 

そのためには政党政治とはいったい何か、政党とはいったい何なのか、これらをどう理解するのかが重要な要素となってくる。そのことにより今回の復党問題の評価の是非は自ずから決まってくるものと考える。

 

わたしは政党というものを国家のあり方、憲法のあり方、国防のあり方など国家運営を行っていくうえでの重要な価値観を共有する者が集まった政策集団であると考えている。その政策集団に所属する国会議員が議会で多数を確保し政権を取り、その価値観に基づき政治を行っていくのが政党政治であると思っている。その場合に、本質的問題となるのが「共有する価値観」の範囲である。その範囲が狭いのか広いのか、その受け止め方次第で今回の復党の評価が異なってくるのだと考える。

わたしは価値観とは個別政策すべてに同一の考え方を持たねばならぬというような窮屈で偏狭なものではなく、向かうべき方向が一緒であるといったもっと幅の広い概念であると捉えている。すべて同じ意見でなければならぬ、同じ行動をとらねばならぬというのは、実は「宗教」に限りなく近づいた概念である。現に唯一神教であるキリスト教やイスラム教などは他の神の存在を許さない厳格性を有す。

 

しかし、政党というのは大きなベクトルの向きが一緒であれば、個別政策論において違いがあろうが集団を形作ることに問題はない。逆に政治の世界においては、党内で政策論争さえ許さぬ政党というのは、ある種の専制政治を生む土壌となる危険性を持つ。幅の狭い価値観をもった政党は、時と場合、時代背景によっては危険な思想集団に変化(へんげ)する可能性を秘めているからである。そう考えてきたときに、国家運営の大きな価値観を共有する者であるにもかかわらず、郵政民営化法案というたったひとつの法案に反対したというだけでその政党に属せないということの方が、わたしは独裁政治を奨励しているように思えて気味が悪い。本来、自民党は落選議員も含めて復党を一気に認めるべきであったとさえわたしは思う。

なぜなら民主主義を認める政党で、国防のあり方、教育のあり方など方向感が本来、真反対ということは考えにくく、もし真反対であれば別の政党を立てるなり、そうした価値観を共有できる政党に属すなり、移っているはずだからである。

 

その意味で今回の復党劇は、中川秀直幹事長と平沼赳夫議員との心理戦を含む鞘当てや郵政民営化法案への最終的賛否など復党条件のハードルの高さ、そして小泉チュルドレンの騒々しい復党反対運動などが重なり、物見高い国民はその帰趨の方に興味津々の体となった。

復党を希望した現職議員である12名は先の国会で安倍晋三議員を首班指名した。つまり安倍自民党総裁の所信表明に賛同することを表明したのである。これは「価値観を共有する」ことの立派な証であり、その総裁を担ぐ「価値観を共有する」政党がそうした議員を受け入れないことの方がおかしなことであると言うべきである。さらに現職議員だけではなく落選議員も、今でも「価値観」を「共有」できると考えて復党を希望するのであれば、無条件に認めるのが政党政治本来の筋であるとわたしは考える。

 

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